体験体得の世界(後編)

☆「カエル」は、八倉治療院のシンボル、「自然治癒力」の象徴である。
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 今日は、最近しばらく師匠の話題からはなれていたので、久しぶりに、少し師匠と私のことについて触れて書いてみようと思う。ひと昔前までの日本は、鍼灸・按摩指圧の世界も徒弟制度であり、師弟の関係が重要であった。ところが明治時代以降、西欧諸国の文明が取り入れられるようになり、「学制」がしかれるようになった。医療の世界も学校制度が取り入れられるようになり、鍼灸マッサージ師を目指すものは、学校で勉強し国家試験に合格することで「資格免許」が得られるようになった。志しあるものが、尊敬する師匠のもとでで修行を積み、師匠に認められることで「免許皆伝」が許される。そういう時代は、明治時代の「文明開化」と共に終わった。

 だから、「鍼灸マッサージ」を学校で一緒に学んだ友達も、私のように学校に入る前から「師匠」がいて、師匠から何かを学んでいるという人は、ほとんどいない。ほとんどいないというより聞いたことがない。私の今日の治療の基礎になっているものは、もちろん専門学校で培われた知識や技能であることは確かである。しかし、私の治療の真髄は、師匠から教えていただいたことが全てである。それは、学校で培われてきたこと以上に遥かに大きい。私にとって師匠は、時には親以上の存在である。また、きょう今日まで、亡き父や母のことを忘れたことがないように、「師匠」のことや、「師匠の教え」を忘れて生活をすることは、一日としてなかった。そのくらい私にとって師匠の存在は大きい。重要でかけがいのないものなのである。

 師匠の教えは、「ある時は厳しく、そして、またある時も厳しい」とにかく「厳しい」の一語である。それは、この治療の世界が、「甘さ」が許される程、生半可な世界ではないからである。仏教の世界でいうなら「大日如来」の化身が「不動明王」であるように、普段の師匠は、鬼のような厳しさで指導をしてくださる。しかし、いったん私が、窮地に立たされた時には、まるで「地蔵菩薩」の化身のように優しく導いて下さる。私は、これまでの半生を振り返る時に、何度、師匠に助けていただいたかことか知れない。そして、何度も、生命の危機を助けていただいたこともある。だから、私は、世界中の誰よりも師匠の言うことを信頼している。これからの将来、社会がどんなに変化し、時代の波に世界が揺らぐことがあっても、私は迷うことはない。きっとこれまで通り、師匠の言うことを信じて歩んでいくことができることだろう。混迷深き現代社会。「絶対」のない世界にあって、私には、確かな「絶対」が存在する。それは、いうまでもなく、私の師匠の存在であり、師匠の教えである。

 今は、平成という時代である。だが現代社会においても、まだ、このような師弟の関係は存在している。ここまで書けば、私にとっての師匠が、どういう存在であるかが、少しはわかっていただけたことと思う。しかし、ここで当然の心理として、予想される「私の師匠は何者なのか?」という質問には、残念ながらお答えすることができない。私はここまで師匠のことについて書きながら、これ以上は、師匠との約束で語ることができないのである。治療の世界において患者さんについては、「守秘義務」があるように師匠についても「守秘義務」が、私たちにはある。しかし、そういう私自身、何を隠そう師匠については、実のところまだ何もわかってはいないかもしれない。あれほど長年にわたり、ご指導をいただきながら、不思議なくらいに師匠の生活については、全くといっていい程わかっていないからだ。時々お会いすることはあっても、師匠の存在は、まるで「仙人」であるかのように思える時がある。本当に私は今、雲をつかむような話をしているのかもしれない。
 
 師匠は、よく口癖のように治療家の世界は、「体験体得の世界」だということをいわれる。言葉で伝承伝達できるものではない。普段、疑問に思っていることを実践し、試行錯誤をくり返しながら、その中にある真理を体得していく。治療の世界は常にその積み重ねであるとも言われる。私が以前ブログの中で書いていることだが、人体という小宇宙の中には、「上下」「左右」「呼吸」という歴然たる「宇宙の法則」が働いている。そのことも、「臨床」という実践を積み上げた中から初めて知り得ることができた。師匠は、いつもそうだが、始めから、「ああしなさい。こうしなさい」ということは、一切言う人ではない。いつもほとんどの場合、たとえ話のような形で私にヒントを下さる。それに気づくか、気づかないかは、私次第。ほとんどの場合気づかないでいる場合が多い。しかし、いったん「体得」すると、それは部類の力となって臨床の結果として現れる。

 八倉治療院の治療は、肩こり腰痛程度のものであれば、ほとんどの方が、2〜3回くらいの治療でおわる。患者さんの年齢や程度次第では、初回のみの治療で快方に向かわれる方が殆どといっていいくらい多い。キャリアとしての臨床経験を問う方が多い中、開業して約2年くらいの私の治療院が、それほどの成果を出せるということに、患者さん以上に私自身が驚いているくらいだ。それも「守秘義務」のうちに入ることだと思われるので、話すことは避けさせてもらうが、強いていうならば、「種も仕掛けもある」ことは確かである。しかし、残念ながら、どんな人でも治療の世界のアマチュアやプロを限らず、その「種(たね)」を見つけることは不可能である。私の治療に、特に珍しいものはない。治療だけ診ていていただけば、専門学校でも教えてくれる手技が、基礎となって少しオリジナル化しているだけであろう。基本的には、指圧が主体といった肩こり腰痛の治療であることには違いないからである。しかし、「目に見えない世界」それがこの治療には、確かに存在している。

 先日、治療にみえた患者さんが、「先生おかげさまですっかり元気になりました。まだ、2・3回くらいしか治療してもらっていませんが不思議です。先生は、何か『気功』でも勉強されているんですか?」とおっしゃられた方がいた。実は前にもブログで書いたことだが、私の治療は、リラックスして受けていただくために「ヒーリング・ミュージック」をかけさせてもらっているが、実のところ、私の治療は、少しうるさい。治療の間、終止、私の呼吸音で「スー」・「ハー」が何度もくり返され、時々、患者さんに対して耳障りではないかと心配する時がある程である。これを患者さんは、「気功」ではないかと解釈されたのかもしれない。指圧でも押す時に息をはき、指を離す時には、息を吸う。実は、師匠の指導で「呼吸法」を教えていただいた時に、呼吸は、はく時に脱力するが、この時にエネルギーは高まることを体験から知った。それを治療に応用するようになって、私の治療は、さらに効果を発揮するようになった。これは、「気功」といえば言えないこともないが、実のところ、私にしてみれば、エネルギーの「調整」を行っているのであって、それが「気功」だと言うようには捉えていなかった。この世の中には「気功師」という名の「にせ気功師」が、世間では、どうどうとまかり通る時代である。それは、治療の世界で、本物と偽物が混在して整理されていないからである。だが、いずれそれらは淘汰され本物だけが残っていくのだろう。それには、もう少し時間がかかりそうではあるが、そういう時代がもうそこまで来ていることは確かである。

 「体験体得の世界」ということで、もう少し「種(たね)あかし」がさせてもらえるかと思っていた。だが、このテーマは難しい。書いていくうちに、私に中で躊躇する気持がどこかに働いていて思うように書くことができなかった。やはり、明かしていい部分と明かすことができない部分についてもう少し、私の中で吟味してみることが必要のようだ。それは、あせって行うことではないので、今回は、このテーマをいったん終了させてもらうことにしたい。


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by yakura89 | 2009-07-20 13:15 | 治療方針 | Trackback | Comments(0)
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