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鍼灸マッサージ師という仕事

☆治療院ではよく見かける経穴人形
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 私の名刺には、「鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師」というふうに書かれている。これは、私がこれからずっと背負っていく看板であり、肩書きである。でも少し長すぎだから世間的には、「鍼灸マッサージ師」ということで通している。私は、この肩書きが気に入っている。だから、いつも抵抗なく、相手の気持を意識しないで、名刺を渡せることができる。それはなんと素敵なことだろう。私は以前、◯◯高校教諭とか◯◯中学校教諭という肩書きの名刺を持っていた。ところが、あまりその名刺を人に、あげた記憶がない。いつも学校を変わるたびに新しい名刺を作るのだが、使い切るなどということは、皆無といっていいほどなかった。

 私は、以前は、教師であったから、昔から、人から呼ばれる時には、「◯◯先生」と呼ばれていた。ところがこの「◯◯先生」と呼ばれることに大変「抵抗」があった。なぜなら、普通の大人から「先生」と呼ばれると、この人は、私のことをどんな気持で「先生」という言葉を使っているのだろうか、と考えてしまうからだ。「先生」は明らかに敬語である。ところが、世間には、「先生と呼ばれるほど、バカではない」という慣用句もある。それほど、「教師」は、「世間知らず」の「おバカさん」が多いのだろう。だから、相手が、私の仕事を「尊重」して言ってくれているのか、それとも、やはり「軽蔑」しているのか、わからなかったからだ。私は、なるべくなら、「先生」と呼ばれたくない。そう呼ばれることを避けてきた。それが、教師時代の、私のささやかな「抵抗」とも言えた。そのくらい私は、「先生」と呼ばれることが嫌いだった。

 ところが、「鍼灸マッサージ師」となった今は、「先生」と呼ばれることに「抵抗」がなくなった。患者さんから、「先生」と呼ばれれば、素直に「ああ、私のことを認めてくれているんだな」と思う。また、「八倉さん」と「さんづけ」で呼んでくれれば、それはそれで、私に対して「親しみを感じてくれている」ことに、また違った喜びを感じる。つまり、「呼称」に対するこだわりが、ほとんどなくなってしまっているのである。これは一体どうしたことなのだろうか?本来、同じ「先生」であることは確かである。ところが、両者は、スタンスがまったく違っている。私達「鍼灸マッサージ師」というのは、「患者さん」とは、ほとんど横の関係といってもいい。ちょうど、患者さんに肩を貸しながら、同じ歩調で歩いているような感覚がある。そのスタンスが、私はとても気に入っている。

 また、どちらも「世のため人のため」の仕事であることには違いないが、「鍼灸マッサージ師」の仕事には、「教師」のような押しつけがない。本当に困っている人だけが、向こうからやってくる。こちらは、ただ、助けを求めてきた人にだけ応えていればよい。そういう気楽さがあるからだ。また、「治療者」と「患者」には、不思議な関係が存在する。私の場合は、「患者さんが」仮にどんなに年上であろうと、世間的に偉い方であろうと、それだけでは、「尊敬」できない。また逆に、私より年が若かろうと、どんなに貧しい方でも、あまり、人の評価には結びつかない。ただし、敢えていうなら、私の場合は、「自分の身体のことを大切に考えているかどうか」のただ一点で、人に対する評価はガラリと変わってしまう。私は、ご自分の身体を大切に考えている人は、誰でも尊敬する。また、その反対の人であれば、どうしても尊敬する気にはなれない。それが、私の人に対する評価であり見方でもある。

 ごく普通な自然な関係。それは、私達「鍼灸マッサージ師」の場合は、「医師」と違って、あまり、人の病気を「治す」という意識がないからだと思う。これは、もしかしたら私の場合だけかもしれない。病気を「治せる」とか「治せない」かは別として、私の「鍼灸マッサージ師」としてのスタンスは、あくまで、人助けは、「お手伝い」である。病気を「治す」のは、そのひと本人の問題であると思っているからである。現に不思議とそのようになっていく。いくら人が困っているから、手を貸してあげたいと思っていても、助けることができないことはいくらでもある。また、怪我や病気の状態が、どんなにひどい状態でも、本人が一生懸命に「治そう」という思いが強い方は、自然に「治癒力」がはたらく。どうしたって身体の方で「快方」に向かっていくのである。やっぱり、その人が、自分の身体のことを、どのくらい大切に考えているかが、治癒力の決め手となって、明暗を分けているように思える。この仕事に就き、「人間」というものを、教師をしていた頃とは、また、別の違った角度で観ることができるようになった。それは、私にとって大きな収穫である。