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「敬老の日」に思う

 今日は敬老の日。八倉治療院も今日は、「敬老の日」ということで、高齢者の患者さんが見えてくれるのではないかと、朝からスタンバイ。ところが、待てど暮らせど、今日はまだ、一人の患者さんもお見えにならない。でもよく考えてみれば、今年は、隣り組の「組長」をやっているのでわかるのだが、今日は、午前中から「老人会」などの催しが組まれていて忙しいのかもしれない。また、世の中は、皆さんが待ちに待ったSW(シルバー・ウイーク)のまっただ中である。きっと、家族や友人とお出かけという人も多いのだろう。それはそれで、「天下泰平」ということでとてもいいことだ。あまりに退屈な一日なので、日頃、高齢者の患者さんを診させてもらっている関係から、「敬老の日」を自分なりに考えてみた。

 日本は、高齢社会の国になった。ところが、高齢者のおかれた状況は、必ずしも幸せな状況とは言えない。町内にも家族とは、同居しないで一人暮らしをされている75歳以上の高齢者が極めて多い。いくら介護施設が増えたとしても、とても需要に追いつかないのが現状である。また、入所できたとしても、それを望まない高齢者が多いと聞く。確かに、私も何度も介護施設や特別老人養護ホームにも訪れたこともあるが、施設は素晴らしくても、あまり進んで入所したいという気分にはならなかった。やはり、家族と一緒に住みたいと願うのが、本音ではないだろうか。しかし、その希望が実現にできるかどうかは、また別の話である。おそらく、今の日本社会においては家族と最期まで同居できる高齢者は、極わずかな人に限られているように思う。やはり、日本も西欧諸国のように、親子独立の社会にほぼ完全に移行しつつあるようだ。そうすると、家には年老いた夫婦が、二人で暮らしている家庭が多いが、必ずいつかどちらかが先立つことになるのが普通である。そうした時に、やはり最終的に「一人暮らし」の高齢者が多い状況が必然的に生まれてくるのが、今の日本の高齢社会の実情のようである。

 わが家でも5年前に父を見送ったが、母を亡くしてから何十年と妻を亡くした父の様子は、寂しそうだった。家族と一緒に住んでいる家庭であっても、その寂しさは、息子である私にも伝わってきた。だから、最期まで父を手放すという気持は、全くなかった。同居できるかできないかは別として、やはり、子供として最期まで親に寂しい気持にならないように手を差し伸べることは大切ではないかと思う。それは、誰にも強制できないし、また、強制されてもできることではないが、もう少し、日本社会も高齢者に優しい国であって欲しいと祈る。いずれ私たちも、もうすぐ、今の後期高齢者が、直面している現実を味合うことになる。そういう時に、過去の親に対する行いを後悔しないためにも、今おかれた高齢者問題を、決して人ごとのように扱ってはいけないと思う。

 話は変わるが、私は高齢者の治療にあたらせてもらっているが、やはり誰もが、病気や怪我を克服することは困難である。しかし、自分の身体を大切にするように心掛けている人と、そうでない人では、身体の健康状態がまったく違う。いつも、家族に迷惑をかけないように、自分の足で治療院に通われてくる人。「寝たきりになるといけないから」といって、せっせと、治療院に通われている人。そういう高齢者たちを目の当たりにすると、本当に頭が下がる。私は、このような心遣いから、自分の身体を大切にする人を心から尊敬する。高齢者の問題は、決してどちらが悪いとか、そういう単純な問題ではない。双方に何かしらの問題はあるから、生まれてくることも確かなのだ。高齢者は、高齢者で今から「家族や配偶者のお世話にならない」そういう決意で、これからの時代を生き抜いていく心構えが必要である。私も高齢者の味方として、そういう高齢者が一人でも増えて欲しいと願う。そういう高齢者の生きる姿勢を敬うのが、今日9月21日。「敬老の日」である。

 
by yakura89 | 2009-09-21 16:08