カテゴリ:病気は気づきのためのメッセージ( 20 )

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「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」

この間、借りてきたビデオ映画、確か「メカニック」だったと思いますが、こんな台詞があったんです。「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」ってね。何だか、映画のストーリーとは、ほとんど全く関係はなかったんですが、その言葉の重みに、ジーンときてしまったんです。

あのほとんどの方はご存じないと思うのですが、とても素晴らしい治療をされる治療家には、こういう場合が多いのです。わたしの師匠でさえ、何度か死ぬほどのつらい体験をされたことがあるそうです。師匠が、そう仰るのですから、それは余程つらい体験だったと推測されます。そういうわたしも、死ぬほどのまでの体験とは、いえませんが、何度も病院に入院させてもらったり、窮地に追い込まれ、師匠に助けられた経験があります。

こうしてわたしが、師匠に出会うことができて、今このような道に進ませてもらっているのも、やはり、わたしも「痛みを知る人」の仲間であるといえるでしょう。またそれは、過去のことではなくて、今現在も痛みを知る人なのです。だからこそ、痛みで苦しんでいる人を見ると、「なんとかして楽にさせてああげたい」と言うモチベーションが生まれてくるものなのかもしれません。

また、もし治療家が、全くの健康体で、病歴がなかったとすると、これは、大変な考えものだといえないでしょうか?病気のつらさ、症状からの痛み。そういった体験がなかったとすると、人のつらさや苦しみがわかりません。だから、やっぱり、わたしはこの言葉には、尚更深い意味があるように思えてならないのです。

実は、痛みもつらさも苦しみも。人間がこの世に生まれてくる上で、とても大切なお勉強なのではないかっていう気がしませんか?実は、それを知ることは、すごい勉強なんだって、思われるときがあるのです。身体のどこかが痛む時には、何らかの理由や意味が存在します。それらに気づかされる時、そしてそれを克服した時には確かに人の「成長」が伴ってくるのです。

それから、もうひとつ誰でも人を癒せる力があるわけではありません。人は、徳を積んだり、霊性を高めることで、霊格が上がります。ポケモンでいうCPとか、XPとかいうやつと同じで、治療の世界でも、低いレベルの人が、高いレベルの人を「癒せる力」は、持ちえないのです。すぐにパワー不足になります。

何か、誰もが簡単に聞き流してしまう言葉ですが、わたしの耳には、すごく印象深い言葉として残ってしまいました。「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」って、やはり本当だって思います。
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029.gif 当たり前なんてひとつもないと知ったら、すべてが有り難く思えてきた

やっぱり人間は、自分中心の考え方をしているんですね。だから、こうなって当たり前って、勝手に決めつけて考えているんです。でも、当たり前なんてひとつもないということがわかってくると、すべてが、有り難く思えてくるんです。

病気だって、幸せだって、みんな同じなんです。そう有ることが本当は難しいことなんです。そういうことが、よくわかった人は、何に対しても感謝のこころしかありません。

だから、私の師匠は、よく私に口が酸っぱくなるくらい、言われた言葉が、「求めるものは得られず。これが最初の宇宙の法則なんですよ」って。確かに求めるこころが強ければ強いほど、人は欲が生まれてくるんです。その欲が、自分を苦しめる種となるのです。

お釈迦様は、欲を煩悩(ぼんのう)とされました。実は人間が持っている百八つの煩悩が、人間を苦しめていると悟り、人間を幸せにするために「欲を捨てなさい」と諭されたのです。

そういえば、私がこの治療の世界に入って気づいたことがあります。あまり、よく治らない患者さんほど、ご自分の悪いところばかりにフォーカスされる傾向があるようなんです。どんなによくなってきても、それは当たり前だと思っていらっしゃるようで、ちっとも有り難いなあってお気づきになさらないようなんです。

ところがよく治っていく患者さんは、「ありがとうございます」の連発なんです。「首が回るようになりました。ありがとうございます」「膝が痛くなくなりました。ありがとうございます」よくなっていくところばかりフォーカスされていくので、終いには全部治っているのです。

実は、患者さんも治療者も同じなんです。いつのまにか、よくなって当たり前の考えが常識になってしまい、感謝することを忘れてしまっているのです。だから、時々、神様は、気づかせてあげようとして、病気や不幸を、わたしたちにプレゼントしてくれているみたいなんです。

だから、わたしたちは、不幸なときほど、病気なときほど、「ありがとうございましたって、手を合わせて感謝しなければならないんじゃあないか」と思うときがあります。
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029.gif 身体に痛みがあるからこそ、鍼治療で治すことが可能なのです

もし頭痛があったり、体中に痛みがあるとしたら、あなたならどうしますか?やはり80%近くの人が、薬局や、お医者さんから処方された、睡眠薬や頭痛薬や鎮痛剤を飲むことでしょう。

今、私の家には、奥さんの友達が、遠いニュージーランドから、旅行をかねて私の家に泊まりがけで治療にみえています。わたしたち夫婦が、その方のニュージーランドの家に泊めてもらって、3人で旅行をしたのは3年前の話です。滞在中、夜は、旅のお礼に、その友達と家族の身体を治療させてもらいました。

年齢は当時50歳そこそこ。体重は、わたしの目測で70キロ。どこにでもいるような中年太りのおばさん体型でした。首こり肩こり腰痛、座骨神経痛もありましたが、それは、年齢相応で、当たり前のことです。むしろ、元気そのもので、「肉体年齢」は、わたしたち夫婦より、ずっと若い印象を受けました。

それが、3年ぶりに会う彼女の身体は、全く別人に変わっていたのです。体重は、間違いなく100キロをゆうに超えています。もう、ぽっちゃりした中年体型とはいえません。よくこんなに太ってしまって、遠い日本までこられたのが不思議なくらいです。

身体は、見かけが変わっただけではありませんでした。それ以上に変わったのは、身体の中身です。診察しただけで、3年前の身体ではないことがよくわかりました。実は予想はついていたことなのです。ちょうど1年前に、ご主人を脳溢血で亡くされていました。二人の息子さんがいるのですが、もう成人されていて、独立して、二人ともオーストラリアに住んでしまっているのです。

こころと身体は一体です。急に家族全員と別れて寂しくなった彼女は、痛みを薬で抑え、まるで、止まらないキャンデーのように服用し続けました。それから、寂しさを紛らわすために美味しいものをいっぱい食べるようになってしまったのです。もともと、脂肪分や炭水化物に偏る、いい食生活ではありませんでしたから、彼女の身体は、見る見るうちに、スパーヘビー級へと変身していきました。

困ったことに、変わったのは外見より、身体の中身の方です。眠れないからといい毎晩、睡眠薬を飲み続け。痛くて動けないからといって鎮痛剤を何年もがぶ飲みして来たら、どんな身体になるかは、わたしがもはや説明するまでもありません。でも、特に外国では、こういうパターンの生活をされている人が、非常に多くいらっしゃいます。決して珍しいことではありません。

でもわたしは考えてしまいました。もしわたしが彼女だったら、実際問題どうしたのだろうか?息子さん達は、いずれは巣立っていくし、また独立していってくれないと困りますが、ご主人の「突然の死」は、どうすることもできません。

突然の悲しみや寂しさに襲われ、体中が痛くて、よる眠ることができない。それをそのままというわけにはいきません。生活は続くわけですから、眠れないと明日の仕事に支障をきたします。他に治療の選択肢は見当たりません。やっぱり80%以上の方は、薬に頼ってしまわれるのではないでしょうか?

でも考えてみてください。1週間長くて1ヶ月、痛みが取れなかったり、眠れなかったら、もう薬は、効果が期待できないということではないでしょうか?間違いなく薬のグレード(強さ)はどんどん上がっていきます。最高に強い薬を3年以上、飲み続けたら、身体は、どうなると思いますか?もうボロボロになっていることは、素人でもわかっていることではないでしょうか?

残念ながら、スタンダードの近代西洋医学には、すごい落とし穴というか欠陥があります。「諸刃の剣」といえばわかると思いますが、効く時にはピッタッと切れ味よく効くのですが、ダメな時には、その肉体を、今まで以上にぼろぼろに傷つけてしまうのです。それこそ、取り返しのつかない身体にされてしまうことは、現実的によくあることなのです。

ニュージーランドにすんでいる彼女が、わざわざ遠い日本いるわたしたち夫婦を訪ねてくれたのは、友情からに違いありませんが、実のところは、やはり友情以上に、「ヘルプミー」の気持ちが強かったんじゃあないでしょうか?

わたしの行なっている鍼治療は、「神経反射療法」といって、神経や脳を治療する方法です。これは薬は一切使わないで、身体のどこも傷つけることなく痛んだ脳や神経や身体を修復することができる画期的な方法です。ただ、二つ条件があって、「手術をする前に行なうこと」それから、「薬の服用から、脳や神経の働きを損なわないこと」これが条件なのです。

この二つが大丈夫なら、治療は可能です。というより、薬をピッタリやめられた患者さんは、必ずといっていいくらいほとんど治っています。でもそれができなかった患者さん。こちらの指示どおり治療できなかった患者さんは、いくらがんばっても治すことができませんでした。特に薬をやめるということは、患者さんにとってすごく辛くて不安なことです。もちろん強制できることではありません。

ですから、「治るか」「治らないか」は、患者さんの判断に関わっているのです。わたしのいえることは、痛みというのは、決して、患者さんが考えるように悪いことではありません。痛みがあるということは、脳や神経は、正常な働きをしているからなんです。薬にいくらおかされていても、依然とがんばって、わたしたちにメッセージを送ってくれているからなのです。

痛みがあるからこそ、いつもいうように「治る可能性がまだある」ということなのです。普通は、わたしの鍼は、いくらはじめは痛がっている患者さんでも、患部を一瞬で痛みから解放するくらいの力を発揮します。でもこれは、薬を使っていない患者さんだからです。脳や神経の働きが正常だからです。でも、鍼が効きにくい。治りが悪いからとはいえ、痛みがそこにある以上、わたしは、可能性があると信じています。

問題は、患者さんが、どちらの方法を選択するか?決められるのは、神様から、その身体をお借りしている患者さんしかいないからです。
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029.gif すべての病気は、はじめは首こり肩こり腰痛から始まる

みなさんはご存知でしたか?すべての病気は、はじめは首こり肩こり腰痛から始まります。だから、首こりや肩こりを、あんまり甘くみないでくださいね。これは、長く指圧鍼灸の治療をやっていると、段々人の身体というものがよくわかってきます。治療の予約で電話がかかって来た時に、診察は始まっています。わたしが、「具体的にどのようなことでお困りなんですか?」という質問をした時には、もう診察は始まっているのです。

1、「首が凝って仕方がないんですが」といわれた時には、この患者さんは、腰痛もあるなって思います。

2、「左の首や肩が凝って、仕方がないんですが」といわれた時には、この患者さんは、もう長く患い、重症化されています。座骨神経痛もきっとあるはずです。(ほとんどのみなさんが右首肩からコリが始まるのです)

3、もし「首も肩も腰も全部右側が痛くて困っています」という患者さんがいたら、かなり長く患ったことで、特に左下半身が慢性化してしまって痛みが麻痺してしまい、ご自身で自覚されていない状態のことも多いのです。


このように、ほんの些細な、会話からも、問診は始まるのです。それはさておき、病気は、ある日突然始まるということは、人間のカラダで起こりえないことなのです。それは、病気は、不幸なことですが、メッセージ性が、大変に強いのです。

でもいきなり、「極刑」を申し渡されることはありません。最初はやさしく、首こり肩こりくらいから始まっていくのです。以前「病気は気づきのためのメッセージ」という記事を書かせてもらいました。そこでも詳しく述べさせてもらっていますが、こんな感じで、病気へと発展していくみたいなのです。

1、首こり肩こり。
2、腰痛。
3、神経痛。(座骨神経痛、大腿神経痛、三叉神経痛)
4、自律神経系の症状
5、内臓疾患による様々な症状。


4、5は、かなり大雑把な表現ですが、よく話題になる、糖尿病や脳梗塞、心筋梗塞やガンなどの疾患も含まれると思います。多分多くの患者さんは、様々な検診から、病気を発見されることが多いと思いますが、実は、もうすでに1、首こり肩こり腰痛くらいから、病気のメッセージは始まっているのです。

治療院をやっていますと、やっぱり、治療にみえる方は、やはり、女性の方が多いです。ですから1から3くらいまでの、まだ病気とはいえない。症状くらいのところで、女性は病気を食い止めています。

やっぱり、自覚症状はありながらも、仕事が忙しくて来れないと決めつけている方や、何かと理由を付けて、検診も怠りがちな男性の方に大病が多く。平均寿命も男女差が、非常に多いことも、何となく頷けるような気がします。

ですから、1から3までの「首こり肩こり腰痛および神経痛」をあまり甘く見ないでいただきたいのです。3までなら、きちんとした腕のある治療院に通ってもらえば、必ず治る病気の範疇だからです。

でも裏を返せば、それを怠っていたり、身体が発するメッセージに耳を背けていたりすると、とんでもないしっぺ返しを受けてしまうことになってしまうのです。実はこのテーマで記事を書こうとすると、わたしの文章はなかなか終わることができません。

ただ、ここではひとつだけ「すべての病気は、はじめは首こり肩こり腰痛から始まる」ということだけを、こころのどこかに記憶としてとどめておいていただきたいと思います。病気の治療は、早ければ早いほどいいのです。
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029.gif素直な人ほどよく治る

最近、患者さんに教えられました。「先生、やっぱり、よくなるかよくならないかは、こころのあり方が問題なんですよね。80%が、こころの問題なんですよね」そういえば、だいぶ前のことですが、確かに師匠に教えていただいて、このブログにも書いた覚えがあります。

指導する立場のわたしが、すっかり忘れていたことでした。そういえば確かにそうです。わたしも以前、師匠から、「病気は、10%が、食事の取り方の問題。!0%が身体の使い方の問題。残りの80%が、こころのあり方の問題」ということを教えられました。あらためて、師匠から教えていただいたことを、今度は患者さんから教えてもらいました。

実は、仕事が忙しくて、満足に休養もとれず、治療にも通えない患者さんが、わたしの治療院にもいっぱいいます。仕事も調整してもらえない。治療も満足に継続させてもらえない。残念ながら、わたしにも手の施しようがなくなるときがあります。正直そういう患者さんは、わたしはすごく心配なのです。でもわたしの手に負える患者さんではありません。患者さん自身のこころのあり方の問題なのです。

師匠はよく言われます。「治るか治らないかは、その人自身のこころのあり方によるものですから、治療するものは、その点をよく心得てかからなければないません。素直な人は、やっぱりよく直りますよ」わたしも臨床をやっていて、すごくそのことがよくわかりました。

やはり、「病気は気づきのためのメッセージです」痛んだからだを楽にしてあげることも大切です。しかし、その患者さんに気づいていただくために、治療する側は、気づきのためのヒントを差し上げられたらいいかなあって思います。それが、押し付けがましいものでは、患者さんから退かれてしまいます。しかしわかっていながら、それをどうにもして上げられないのもつらいものです。

これだけは確信もって言えます。治癒の手がかりは、80%がこころのあり方の問題です。「感謝」のこころを忘れないように、「ポジティブ」に生きること。「イライラしない。カッとこない。クヨクヨしない」そういうことを素直に聞き入れて実行できる人ほどよく治る人なのです。
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029.gif 「陰徳と陽徳」徳を積むすべての仲間に

「徳を積む」って、何となく古めかしい言葉になってしまいましたが、「品性や人格を磨く」と同じくらい大切なことばだと考えます。特にこういう「治療の世界」では、欠くことができない、大切な大切なことなのです。

私はこの世界に入って感じることですが、(鍼灸師やマッサージ師、医師や看護師もそうですが、)医療に携わるすべての人にいえることです。「世のため人のためになりたい」そういう動機で医療の世界に入る決意をされた方が非常に多いのです。でも国家試験をめでたく合格したら、そういう決意は消えるのかといえば、そういうことはありません。やればやるほど、それが生きがいとなり、生涯にわたり、「世のため人のために」をつらぬかれる方が、たいへん大勢いらっしゃいます。

つい先日の話しですが、師匠にご指導していただいているときですが、こんな話題がありましたので、みなさんにもご紹介しようと思いました。話題は、いつものことですが、「どうして人は病気になるのか?」ということに始まります。常々、師匠からは、「病気は気づきのためのメッセージ」なんだということはよくいわれています。でもこのようなお話は、その時、師匠の口から、初めてお聞きしました。

師匠曰く、「病ににも5つの段階があって、第1から第2ステージまでは、お金を払えばなんとか、手術なり薬なりで治ります。でもどうしても治らない病気もあるのです」これは、多分、わたしが説明しなくてもみなさんも大方は想像できる病気もあるのではないでしょうか?薬や手術などで治る病気ばかりではありません。むしろ治らない病気、治せない病気の方が多いのではないでしょうか?

また、師匠曰く、「病気は、あくまでも結果なのです。原因は必ず、その病気を引き起こした人の考え方、行いの中に必ずあるはずです。例えるなら、現在の時点で借金があるから、病気が起きているのです。じゃあその借金はどうして返すかですが、お金で治らない病気なら、いくらお金を積んでも仕方がありません。徳を積むことで、あなたの誤った考えを正し、行動を通してこれまでの借金を償わせてもらうのです」

「徳は積む」ということは、簡単にいえば、「世のため人のために何かお役に立てることをする」ということです。でも「徳には、陰徳と陽徳がある」というのです。「陰徳」とは、自分はいいことをやっていても、そのことは誰にも気づかれないし、誰にも知られることはないのですから、誰にも評価されることもありません。しかし、人から、誰からも評価されないと言っても、神様だけがご存知になられる「最高の徳」なのです。

それに対して「陽徳」というのがあります。いいことを行なえば、人からは評価され、そのことで成績や多額のお金が入れば、いくら人助けとなるいい行いだとしても、陽徳なのです。徳であったとして、神様からの評価は、あまり高いとはいえません。私は、今まで「陰徳」に関しては、昔から、師匠に教えられ、私のこころのどこかに意識していましたが、ここに来て「陽徳」という言葉を初めて師匠からお聞きし、何かすごい勇気のようなものをいただいたような気がしました。広い意味でいえば、仕事に関しても、陰徳と陽徳ってあるんじゃないのかなって、わたしは感じたのです。

みなさんの中にもいませんか?いくら仕事とはいえ、報われない仕事っていっぱいありませんか?たとえそれが、世の中のため人のためになるお仕事であっても、世間からの評価も満足なものではなく、それに似合う金銭的な報酬もない。ただ、これが自分に与えられた使命と自覚し黙々と働く。ということが、多分、大多数の方が、そういう認識のもとに一生懸命働いていらっしゃるのではないのでしょうか?でもまた、もう一方では、豊かな名声と評価と報酬を得られる人も大勢いらっしゃることも確かなのです。でもこれも広い意味でいえば、陰徳と陽徳といえるのではないでしょうか。

実は、わたくしは恥ずかしながら、自分の仕事に誇りを持ちながら、一方で不満を感じていました。どうして、自分の仕事は、「困っている人を助けることができなるのに、社会的な評価を得ることができないのだろうか?鍼灸マッサージ師って、どれだけの人が、正しく評価してくださるのだろうか?」そういう不満のような疑問を、いつもこころのどこかで感じ続けていました。

でもこれって、いけないことなんだなあって、師匠のお話を聞いていて初めて気づいたんです。やっぱり、わたしは、「自分では、頭の中で、いろんなことが分かっていると思いながら、実は何にも分かっていなかったんだなあ」って、素直に気づかせてもらったんです。

前にわたしは師匠から、「神様を信じる人ではなくて、神様から信じられる人になりなさい」って何度もいわれたことがあります。もしかしたら、「陰徳」という言葉の中には、そういうニュアンスのひびきがあるのではないのか?最高の治療は、その最高の徳を積んだ人にこそふさわしいものであるような気がします。なぜか、そういう言葉さえ、思い起こさせられるような気がしたのです。

この話しの内容は、師匠がわたくしのためにの何十年と続いているご指導の中から、ほんの少しの内容をかいつまんで話題にさせてもらったものです。だから、ほとんどの方には、ここに書かれた内容が疑問や意味不明なことばかりだと思います。ですから、これは、あくまで、わたしの備忘録として残させてもらうものです。でも、もしかして、「徳を積む」という意味で、これは、もし志しを同じくする仲間の指針となれば幸わいと思い、ご紹介させていただきました。「陰徳と陽徳」その概念だけでもご理解していただけたなら、わたくしの拙い備忘録は、充分に役目を果たせていると信じています。
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029.gif 病は原因ではなくて結果である

わたしの師匠は、とても厳しい方である。だから、忠言とはわかっていても、つらくなってしまう時もある。先日わたしが電話で指導を受けさせてもらっているとき、このような話しを聞かせてもらった。

ある若者が師匠の治療を受けにきた時のことである。患者さんの症状を治療することはいとも容易いことなのだが、あえて師匠はその方のことを思い、忠言をされるのである。

師匠曰く「あなたは、お金ひとつとっても感謝のこころが足りないんです」若者曰く「自分で稼いだお金です。それを人からとやかく言われる筋合いはありません」師匠曰く「あなたの言っていることは正しいです。でも、『病はあくまで結果なのです』そのことは、あなたは、否定することもできないのですよ」

このように言われると、返す言葉がなくなります。わたしも師匠との会話の中で何度このような、経験をしたことかわかりません。よく人は、病気を原因として考えがちです。厳しい現実社会の中では、よく病気は、原因として扱われます。退職、休学など、理由として説得力があるのは病気です。

ところが、実際は、病気はあくまで結果であり、原因ではあり得ないのです。師匠は、病気の原因を、このように分析されています。「1割が、身体の扱い方の問題。1割が、食事の取り方の問題。そして、残りの8割が、こころのあり方の問題です」と言われるのです。

つまり前回、お話しさせてもらいましたように「病は気から」なのです。つまり、「気」とは想念というエネルギーの問題なのです。「想念」とは、「こころのあり方」「考え方」のことです。想念は、エネルギーですから、「正」と「負」どちらにも働くのです。

「プラス」に働いている時には、病気は起こりようがありません。「マイナス」に働いているときに、結果として、人は病気になるのです。ですから、いかに、人は、プラス思考が大切なのかがわかります。「ポジィティブ・シンキング」と「行動」が、実際にエネルギーとなって、その人の人生を左右するのです。

だから、病気ひとつとっても、それを気づかせていただけるのですから、「感謝」しなければいけなかったのです。でもそういうことまでは、余程の人でない限り人は気づけません。更に師匠は、こうも言われるのです。「想念」の「念」は、「今」の「心」と書くんです。「あなたの、今、現在の心のあり方が大切なのですよ」ってね。
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029.gif「病は気から」の「気」ってなんだろう?

ことわざって、バカにならないですよね。「病は気から」と言うのは辞書で調べてみると、「病気は、その人の心の持ち方しだいで軽くもなるし、また重くもなるということ」だそうです。これって、みなさんの経験からしてあたっていませんか?

「脳梗塞」をおそれる人は、「脳梗塞」になります。「ガン」をおそれる人は「ガン」になります。皮肉なものですが、おそれたり心配すると、その通りになってしまうんです。これが世の常と言うものです。

わたしの師匠は、「想念は、エネルギーである」と言われます。「想念(そうねん)」、つまり、「人の『思い』や『考え方』は、実現の方向にむかうエネルギーとなる」って仰っているんです。もちろん、「おそれ」「不安」「心配」というのも「ネガティブ」な想念ですから、これも、皮肉なことに、実現のための原動力となるのです。だから、人の想念は、いつでも「ボジティブ」でなければいけないのです。

「気」は、「氣」とも書きますね。つまり、「エネルギー」のことなのです。だから、「病は気から」というの時の「気」って、つまり、「想念」のことをいうのです。だから、「病気は、その人の心の持ち方や考え方が、もとで、起きているものなのである」と言うのが、本当の解釈なのだと、わたしは思っています。

また、大切なことは、「病気は、今までのその方の、想念や行動が起こした結果なのです」ですから、これを認め、行動が改まらない限り、「病気は、治らないのです」どんなに素晴らしい医者や治療家に出会い、治してもらったとしても、それは、治ったということにはなりません。

それが証拠に、想念や行動を改めない限り、その方の人生において、何度でも病気は襲ってくるのです。「薬」や「治療」や「手術」で「病気」は治るものではありません。まずは、第一に「病気は、気づきのためのメッセージ」であり、根本である「想念」の「心の持ち方や考え方」のどこに間違いがあったのか?それを知る必要があります。

そして、その人が本当に気づいたのかどうかは、その人の行動が、それを裏付けます。行動に通して、現れたとき、それははじめて本物となり、そこまできてはじめて病気は治るのです。「治る」という字は、「直る」とも書きますが「消る」とも書くそうです。「消る(なおる)」と書かれたとき、はじめて「病気はなおった」といえるそうです。本当に難しいことですが、これが、この世の真実なのだと、わたしは思います。
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029.gifどんなにすぐれた治療家でも、症状は治せますが病気は治せません

これまで何人かの患者さんを診させてもらってきましたが、でた結論がこれでした。確かに患者さんはいろんな症状を訴えて治療院に見えられますが、これまでわかってきたことで、確かなことがあるのです。それは人間の身体は、全体がひとつながりでできています。それと同様に、こころと身体もひとつながりなんです。だから、いくら身体ばかり治そうとしても、治るわけがないのです。

病気は、今までその方が生きてきた長い積み重ねの結果です。その考え方や、生き方のどこかに誤りがあれば、結果として、現れるものなのです。だから、いくらその方のお困りな症状を、仮に治させてもらっても、その方が、ご自分の考え方や生き方に誤りがある以上、病気は治らないのです。仮にその時によくなられても、また必ずいつか、その症状も、もどってきます。それは、病気が、今までの考え方、生き方の結果に他ならないのです。

わたしはこれまでに、「病気は気づきのためのメッセージ」であると、何度も言わせてもらってきました。それは治療の世界に入り、大勢の患者さんのこころと身体を診させてもらいながら、感じてきたことなのです。簡単にいいますと、身体に何かつらい症状がある患者さんは、必ず、こころのあり方に何か問題を抱えています。また、逆に、こころに何か問題のある患者さんは、必ずといっていいほど、身体もどこかが病気なのです。

人間のこころと身体の問題は、ずっと昔から、そしてこれから、どんなに生活が変わろうと、科学が進歩しようと、文明が発達しようと、変わるものではありません。昔の人は、実はそのことがよくわかっていて「心身一如(しんしんいちにょ)」という言葉でいい表わしていたのです。つまり、「心身一体」。こころと身体は、ひとつであり、切り離して考えることはできません。ということなのです。

私たちの治療の世界も、やはり同じなのです。どんなにすぐれた治療家がいたとしても、症状は治せますが、病気は治すことができないのです。一時的に、身体を治せたとしても、その方のこころ(考え方、生き方)までは、そんなに容易く治すことはできないからです。いくら科学や医学が進歩しても、病気は、誰にも治せないのです。もし治すことができるとしたら、それは、ご自分でしかないのです。そうです、病気は、ご自分でしか、治すことができないものなのです。
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029.gif目には見えない世界を大切にする人の治療

目に見える世界を大切にするのが、近代科学の基本です。そのために「科学的」ということは、「実証」「証明」ということが重要視されます。これはこれで、大切なことだと思います。それでないと、推論や仮定ばかりでは、あまりにも真実が、いい加減になってしまうからです。

でも世の中には、人間の目に見えなくても、確かなもの。明らかに存在するものというのは、たくさんあります。でもこれはどうでしょうか。それこそ世界が二分するほどまっ二つに別れるところがこれなんだと思います。

「魂が存在するかどうか?」「する」「しない」もしかしたら、ディベートのテーマにしてもいいくらいの、大きなテーマだと思いませんか。あるとき、電話で師匠にご指導を頂いている時に、師匠はいきなりこのようなことを言われたんです。「私たち人間は、実は、魂だけの存在なんです。私たちの身体でさえも、実は私たちのものではあり得ないのです」これは実に深い言葉です。

わたしは、こういわれてもべつに驚きもしません。わたしも、「肉体は滅びても、魂は永遠である」と思っていますし、「人生に目的というものがあるとしたら、それは、魂を磨き上げること」それ以外には、あり得ないと思っています。もちろん究極的な意味合いからですが。ですから、「輪廻転生」といって、あるテーマを持たされて、人間は生まれさせられてくるのだと思います。

これは、私が師匠に出会う前から、今よりは漠然としていましたが、はっきり、自分自身の中では、しっかり認識していたことでもあったからです。ですから、普段からよく師匠がいわれる「私たちは地球という学校に生まれてきた生徒のようなものなんです。ここで勉強したことが、次の来世が決まってくるのです。亡くなった時には、この世での成績がはっきり刻まれて、通知表を一人一人が持たされるのです」よくこのようなことを、何度も聞かされてまいりました。

これは、どこぞこの宗教の話しではありません。神的な話しではあると思うのですが、魂の進化、人生の目的という問題では、神は、避けては通られない、大きなテーマなのです。でも私たちが関わっている治療の世界では、ここまでの話しは、まず、不可能です。話題から避けているわけではありませんが、誤解を生じないためにも、話題に上ることはありません。

ただ、治療の世界を考えた時に、エネルギーという問題を避けることはできません。「氣」とは、まさにエネルギーのことであり、これを意識していると、いろんなことに事実が理解できるようになってくるのです。でもこれも、目には見えないし、顕微鏡やMRIでは映像としてうつることはありません。

だから、これも議論の段階では、相当、論議が闘わされそうな気がします。でもいいんじゃないですか?「目に見えない世界」を大切にする人がいても、わたしはそういう世界でこれからも治療を続けていこうとます。そういう意味では、決して科学的だといえないのがわたしの治療です。
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