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029.gif 言霊の不思議~内臓の働きや心が元気になって、血液循環まで良くなってしまう

言霊とは、言葉には魂があるということです。ですから、わたしは、日頃から、言葉には細心の注意をはらいます。愚痴や悪口やネガティブなことは、なるべく言葉として発することはしません。なぜなら、それをご自分の魂が四六時中、何時もあなたの発する言葉を聞いているからです。

最近もうひとつの理由を師匠から教えていただきました。人は「分け御霊(みたま)」と言って、この世に生まれてくる時に、神様の魂を分けていただいて生まれてくるのだそうです。ですから、わたしたち人間は、一人一人が、神様の分身であり、神様の子供なのです。

もし神様の立場に立って考えてみるとその理由はよくわかります。神の子である私達人間が、いくら孤独な存在とはいえ、お互いに悪口を言い合い、傷つくような言葉を発してほしくないのは当然だからなのです。

逆に師匠が、これが最も大切と言われた「天国ことば」は、まさに神様が、最も大切されている愛の言葉であり、こころなのです。わたしは、これらの8つの言葉は、人のこころや身体の健康と、生活の安定や改善までも実現してくれるほどの力があるものだと信じています。

時と場合にもよりますが、なるべくなら、肩幅くらいに足を開き立って「スー肺」などの言葉を声を発しながら、両方の中指・薬指・小指の3本の指で手刀を作って、鼠径靱帯(そけいじんたい)に、叩き込むような気持ちでリズムよく唱えながら打っていきます。魂に響くような気持ちでパワーを入れていただきたいのです。

でもおそらく人によっては、何でこんなことまでやらなければならないのかと思われる人もいるでしょう。そういう方のために、これらの言葉にどのような意味が込められているのか、ご説明させていただきますね。

ただしこれは、師匠に説明していただいたことをもとに、わたしが勝手に解釈させてもらったものです。大幅に違うことはありませんが、細かな解釈の点で、もしかしたら至らない点があるかもしれませんが、どうぞお許しください。(つづく)
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029.gif 天国ことば

・愛してます ついている 嬉しい 楽しい
・感謝します 幸せ ありがとう 許します


「天国ことば」って、ご存知ですか?誰が言いはじめたのか、いろんな人がいろんなところで、「見たとか、聞いたことがある」とかおっしゃいます。私ももう亡くなわれてしまいました小林正観さん著書で、「うたしの会」があるというのを知っていました。「うれしい・たのしい・しあわせ」という頭の文字を取って、「うたしの会」なんだそうです。どれをとっても大切な言葉のひとつひとつです。

わたしは、今回師匠のところに勉強に行ってきて、この言葉を学んできました。もしあの世に天国があるとしたら、生前このような言葉を多く発する方こそ、天国に召されるのではないでしょうか?わたしはそう思って、この言葉の力にあやかろうと決心しました。

師匠は、日頃から、わたしによくこのようなことを教えてくださいました。「人間は、『分け御霊(わけみたま)』といって、生前は、魂はひとつだったものが、神様から分けていただいて、この世に生まれてくるのですよ」とおっしゃっています。分けていただく前の状態を「神我(真我)」といいます。わかれた後の一人一人の魂を、「自我」と呼んでいます。

だから、人間ってもしかすると、はじめは、みんな神様の大きな愛でいっぱいに満たされていたんだろうなって思います。でも、それが自我にわかれてしまったとたん、人が信じられなくなってしまったり、一人一人が、自我が強くなってしまい。ついには孤独な存在になってしまったのだということが、わかりました。

病気の人がよく「イライラしたり。すぐカッとなったり。クヨクヨ悩む」のは、もしかしたら、根底に神様のように広くて大きな愛が持てなくなってしまったからなのではないでしょうか?人がよく悩んだり病気の種として、言われるのが「ストレス」です。確かに病気の原因の大半は、ストレスというこころの問題です。

でも、もし、わたしたち人間の一人一人が、神様ように広くて大きな愛を持っていたなら、みんな孤独から解放され、ストレスや悩みが全部なくなってしまうものなのかもしれませんね。首こりも肩こりも腰痛も起こりません。

師匠がわたしに教えてくれました。「人間は、人の過ちや罪を許すことができないんです。でも神様は、その人が真剣に悪いと思い反省すれば、「ごめんなさい。許してください」のひとことで、罪を許されるというのです。そういう広い愛のことを、お釈迦様は「慈悲」といい。キリスト様は、「アガペー」といい。孔子様は「仁」といわれたのです。それは、つまり、その究極は「神様の愛」なのです。

何を隠そう、そういうわたしも、実は、自我がとても強くて、家の問題から、親戚や兄弟が許せませんでした。ですから、師匠から「大きな声で、天国ことばを、みなさんといっしょに読み上げて見なさい」といわれた時に、すごく抵抗があって、「許します」というひとことが、どうしても言えなくて、言葉に詰まってしまいました。

人はみな、自分が好きな人、愛している人には、「愛します」と言えるのに、どうして、嫌いな人、憎しみを持っている人には、「許します」と言えないのでしょうか?そこに神様と人間に大きな隔たりを感じます。もし天国に召される人がいるとすれば、すべての天国ことばをクリアーした方のみが、天国に召されていけるのではないでしょうか。

また、輪廻転生を繰り返し、また、人間として地球学校に生まれ変わってくるのか?最終解脱がなされるのか?やっぱり、その方のこころの問題がそこにあるような気がします。

わたしは、今は何も考えないで、一日に何回もこの「天国ことば」を声を出して唱えています。意味は、あまり深くは考えません。でも、言葉には「言霊(ことだま)」といって、魂があるはずです。ですから、何百回、何千回、何万回と繰り返していくうちに、自然に、言葉の魂が、わたしのこころを生まれ変わらせてくれるものだと気楽に考えて、この「天国ことば」を唱えようと、決心しました。

果たして、わたしの大胆な試みは、この先どのように、発展していくことでしょう。もしかしたら、人を許し、わたし自身が、トラウマを克服し、孤独から解放されるかもしれません。わたしは、師匠と出会い、感化され、師匠と同じように「神様のお手伝い」を自負しています。

できたら、わたしも師匠と同じように天国に召されたいて願っています。でも、それも大切な目標ですが、まず、その前に今このわたしの生きているまわりの世界を、天国に変えてみたいと願う大胆な野心が、わたしのこころの中にはあるのです。師匠は、そうなることを「神人(かみびと)」とおっしゃっていました。
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029.gif 当たり前なんてひとつもないと知ったら、すべてが有り難く思えてきた

やっぱり人間は、自分中心の考え方をしているんですね。だから、こうなって当たり前って、勝手に決めつけて考えているんです。でも、当たり前なんてひとつもないということがわかってくると、すべてが、有り難く思えてくるんです。

病気だって、幸せだって、みんな同じなんです。そう有ることが本当は難しいことなんです。そういうことが、よくわかった人は、何に対しても感謝のこころしかありません。

だから、私の師匠は、よく私に口が酸っぱくなるくらい、言われた言葉が、「求めるものは得られず。これが最初の宇宙の法則なんですよ」って。確かに求めるこころが強ければ強いほど、人は欲が生まれてくるんです。その欲が、自分を苦しめる種となるのです。

お釈迦様は、欲を煩悩(ぼんのう)とされました。実は人間が持っている百八つの煩悩が、人間を苦しめていると悟り、人間を幸せにするために「欲を捨てなさい」と諭されたのです。

そういえば、私がこの治療の世界に入って気づいたことがあります。あまり、よく治らない患者さんほど、ご自分の悪いところばかりにフォーカスされる傾向があるようなんです。どんなによくなってきても、それは当たり前だと思っていらっしゃるようで、ちっとも有り難いなあってお気づきになさらないようなんです。

ところがよく治っていく患者さんは、「ありがとうございます」の連発なんです。「首が回るようになりました。ありがとうございます」「膝が痛くなくなりました。ありがとうございます」よくなっていくところばかりフォーカスされていくので、終いには全部治っているのです。

実は、患者さんも治療者も同じなんです。いつのまにか、よくなって当たり前の考えが常識になってしまい、感謝することを忘れてしまっているのです。だから、時々、神様は、気づかせてあげようとして、病気や不幸を、わたしたちにプレゼントしてくれているみたいなんです。

だから、わたしたちは、不幸なときほど、病気なときほど、「ありがとうございましたって、手を合わせて感謝しなければならないんじゃあないか」と思うときがあります。
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029.gif 新年の初詣を待つ島田市の氏神さま大井神社
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 この記事は、2009年1月2日の日に書いたものです。私がいつも師匠から教えられている神さまに対する接し方について書かせていただきました。大変多くの方から読んでいただいた記事ですが、新年の初詣が、もうすぐ始まります。差し出がましいようですが、新年の初詣の参拝のときの参考にしていただければありがたいと思います。今回は写真を添えて、2015年、今年最後のブログの記事とさせていただきます。

029.gif 「初詣の仕方が変わりました」

 今年は、2日の日に妻と二人で初詣に行きました。島田市の氏神さまは、大井神社です。毎年、除夜の鐘がなりだす頃から多くの人が、参拝に訪れます。今年は、2日の午前中でしたが、やっぱりすごい人手です。神社の境内では、いつものように出店が一杯並んで、正月らしいにぎやかな雰囲気をもり立てています。それにしても、毎年のことではありますが、新年を迎えると、これだけ多くの人間が、神社に参拝に訪れるというのはすごいことです。しかもこの初詣参拝という行動は、日本では、何千年と昔から続いてきているのですから、脅威としかいい様がありません。そういう私も、その脅威の中の一人ですが、ただ師匠と出会い、ご指導して頂くようになってからは、参拝の仕方が変わりました。

 師匠曰く、「神社の鳥居は、何かのシンボルなんですが、何かわかりますか?」そういえば、どこの神社でも「鳥居」を見ることができるが、それがなんなのか、なんて考えてみたこともありませんでした。「女性の性器なんですよ」意外な答えに驚いた。師匠は、続けて、「神社のことをお宮さんなんて言うでしょ。神社は、女性の子宮なんですね」師匠のその一言で、いろんなことが、頭の中にひらめいてきた。師匠は、いつも私に、「重箱のひと隅を明かしたら、後の三隅が、次々に理解できるようにならなくてはいけない」と言われています。私の頭の中にパッと、ひらめいたこととは、次のようなことでした。確かに、鳥居から、お宮さんの本殿までの長い道を「参道」というけれど、もしかしたら「産道」から来ているのかもしれない。それに、お宮さんは、どこもたくさんの木で覆われていることも多く、特に参道などは、どこでも小高い木々が沿道に沿ってあるのが普通、何となく成人した女性の性器を彷彿させる。そう言えば、氏神さまは、この地に生まれた私たちにとっては、母親みたいな存在である。だから、この地に生まれた人が、新年を迎えるにあたり、母親である、氏神さまの母体に、訪れるというのは、一種の既成(帰省?)本能のようなものかもしれない。そういうことが、次々に理解できるようになった。

 私は、「面白いですね。」と、つい正直な気持ちが、とっさに言葉について出てしまった。師匠は、少し憤慨されたように、「面白いって何がですか?」と、強い口調で言われてから気を取り直されたように、話の本題を切り出してくれた。「神社にお参りに行きますね。その時、何か願い事をしませんか?」。「ええ、もちろん、願い事があって参拝しているような、ものですから、お願いしますけど」「それは、全然神様には届きませんよ。だって考えてみてください。そんな人間の虫のいい話、誰が聞くものですか。いくらお賽銭を奮発したって、ダメなものはダメなんですね」いつも師匠のひと言には、驚かされる私です。「ええ、それでは、何をお願いすればいいんですか?」「お願いしたってダメなんですよ。神社は、お願いするところではなく、ご報告させて頂くところなんですね」「では例えば、『今年は、不況の年でしたが、おかげさまで何々という会社に、就職が内定しました。どうもありがとうございました』そんな具合ですか?」「そうです。もしどうしてもお願いすることがあれば、あなたのことではなくて、世界が平和でありますようにとか、世の中の人が、みんな幸せになりますようにとか、そういうことならいいですよ。これは、神社でなくても、お寺でもどこでも同じです。そうすれば、神様は、ああこの人は、わかっている人だなということで、その声が神様に届くんです」なるほどなと思いました。それ以来、私たちの参拝の仕方が、変わりました。どんなに回り道をしても、正式な参拝の時には、鳥居をくぐって参ります。どんなに困っている時でも、願い事をするようなことはなくなりました。生活の報告と、それに対する感謝の気持ちをなるべく簡潔な言葉であらわすようにしています。
 
 それにしても、いつも私は師匠から言われていることがあります。「あなたは、弱いから、いつも何かを神様に求めようとしている。神様は、信じるのではなくて、あなたが、神様に信じられる人間になることです」その言葉が印象的に、いつも私の心の中に残っています。

029.gif 皆さま、今年も1年間、私のブログを読んでいただきまして、ありがとうございました。どうぞまた来年もよいお年をお迎え下さい。 八倉治療院
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029.gif「本当の宗教とは、宇宙の法則を示す教えのことをいうんだよ」

師匠は、「治療の世界は、極めていけばいくほど、宗教的、あるいは哲学的なものになっていくものだよ」とおっしゃっています。でも普段の師匠は、もとは僧侶だったこともあって、けっこう宗教に対して批判的であったりもします。

ついこの間も、師匠の口からこんな言葉も聞かれました。「修行のために、座禅しろ座禅しろって、人の顔を見れば、そういう坊さんもいるけど。何を言っているのかね。今時、誰が、座って修行なんかしていられるかっていうんですか。そんなことより、その人が生きている日常の生活そのものが修行なんですね。修行の目的が、何んにもわかっていないから、そんなことが平気で人にいえるんですよ」

また、「第一、仏教だってキリスト教だって、宗教は、もともと人間がつくったものなんでしょう。お釈迦さんだって、キリストさんだって、みんな人間じゃないですか。人のいった言葉をむやみに信じろっていったって、意味ないよね。それより、あなたが神様を信じるんじゃなくて、あなた自身が神様から信じられる信頼される人になりなさい」こういわれた言葉を、わたしはずっと忘れることができませんでした。

それにしても、わたしが師匠にご指導をいただいてから、もう20年近くなるのですが。鍼や指圧などの治療の技術的なことで、あまり、指導を受けたことがありません。いつも決まって、わたしが、日常生活の中で、悩みや困ったことがおきた時に、ご指導していただく。そういうことの繰り返しだったような気がします。

特に、わたしはいろんな症状や病気をすることが絶え間なくて、治療院へ来られる患者さんの症状のほとんどを、自分の身体で体験していました。でも、そういう機会を通して師匠から、それらは、すべて、自分自身のこころのあり方、気持ちの持ち方に根本の原因があることを教えていただきました。「病気は気づきのためのメッセージ」であると、その都度何度も教えていただいたように記憶しています。

師匠から、これまでにいろんな宇宙の法則を教えていただきましたが、その中でも最初に教えていただいたのが、この言葉でした。「求めるものは得られず」現実生活の中で、何度もそういう経験をさせてもらいました。ただ残念なことに、何度体験しても体得できていません。ごく最近では、「刈り取り」という言葉を教えていただきました。つまり、「自分でまいた種は、自分で刈り取らなければならない」という宇宙の法則です。

こうして、具体的な例を挙げていくと、何かとても倫理的な感じもしないでもありませんが、師匠の教えは、決して狭い意味での道徳的なものではありません。むしろ根本は、お釈迦様の「慈悲」であったり、キリスト様がいうような「愛」の教えなんだって思います。よく師匠は、宇宙で最も大切な法則は、愛と調和なんだっていわれます。宇宙には全体的にそういうエネルギーが意志や意識となって流れているのだそうです。そういう波動エネルギーに同調できないと、気づきのために病気や不幸な現象が起こるのだそうです。

わたしは、最近、ようやくそういうことが、少しづつわかってくるようになってきました。だから、治療にとっても、一体何が必要なのか?やっぱり、これも師匠のスーパー語録ですね。「宗教のウかんむりは、宇宙のウです。その下に示すという字がきていますね。それは、宇宙の法則を示す教えということですよ」これは誰でもいえる言葉ではありません。
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029.gif「人間は規則正しいというのが一番よくないね」

またまたでました師匠のスーパー語録。わたしの師匠は、本当にやさしいひとです。こんなにやさしい人っているのかなって思うくらいやさしいのですが、普段の生活は、とても厳しい方で、時には冗談も通じないほど、厳粛な時もあります。

でもわたしは、師匠のお話が大好きです。何か、何時も誰にも教えてもらえないような中身の濃い、深い内容のお話を聞かせてもらえるので、緊張して疲れますが、どんな偉い先生のお話を聞くより、師匠のお話は、ためになるので、いつもすごく感謝して聞かせてもらっています。

でもよく聞いていると、時々、面白いことを言っていることに気がつきます。多分逆説なのだと思いますが、この前はこんな言葉に驚かされました。話しの前後がなくて、申し訳ないのですが。多分、食事療法の時だったと思います。世間では、「健康になりたかったら、きちんとした規則正しい生活をすることが大切です」ほとんどのみなさんはそう考えている人が多いと思います。これが普通だと思います。わたし自身も、そうありたいと願い規則正しくを実行しようとしてきました。

でも師匠は、それではダメだというんですね。食事は、時間や量や内容、回数などいつも決めて取るものではない。一番大切なのは、食べる人のお腹の状態に合わせて食事の回数や時間や量や内容を決めて取ることが望ましいといわれるのです。師匠は、1日3食という決まりはありません。特別なとき以外は、お腹がすかないと食事はとりません。これは、健康という観点から見ると、とても理にかなった食事方法なのです。

前にも紹介させてもらいましたが、胃や腸の消化器官は、食事後は消化活動を始めます。これは結構、長い時間をかけて行なうものです。でも消化が終わった後は、今度は排毒が行なわれるのです。よく、お腹がすくと、お腹がグーグーいって、ちょっと恥ずかしい思いをしたことがありませんか?実は、そういうグル音が始まる時は、大腸の中で蠕動運動(ぜんどううんどう)といって、排毒が行なわれているのです。

だから、一日の中で、「お腹がすいた」という時間を取ることが、とても大切なことなのです。よく師匠は「大切なことは全部、身体に聞きなさい。大切な情報は、すべてわたしたちの身体に表れている」とおっしゃるのです。治療も同じなのです。身体の状態を無視した治療は、はっきりいって危険です。かえって、よかれと思ってやったことでも、とんでもない過ちを犯していることがあるのです。

わたしたちの身体は、顔や体格が違うように一人一人全部違っています。それを同じように対処しようと思ったら大変な間違いを犯すことになるのです。これで、「人間は規則正しいというのが、一番よくない」といわれたのが、少し理解されたのではないかと思います。

それから、これもよく師匠がいわれることなのですが、「人間が書いた本なんか、教科書も含めて、間違いだらけだよ。下手に本を読んで洗脳されるより、自然をよく観察しなさい。自然の中にこそ真理があるのだから。あなたは今日から、自然を教科書にしたらいいのです」って、何度聞かされたかわかりません。

でも確かに、そうなんです。手つかずの自然というのは、実に調和がとれた世界だと思いませんか?そこに人間の科学や文明が手を染めてしまうと、調和が一気に崩されて、破壊や崩壊が始まってしまうのです。今地球規模で起こっている環境破壊の問題は、すべて人間が引き起こした問題であることは、誰もがわかっているのではないでしょうか?

最後に、食事ひとつとっても、わたしたちがずっと正しいと思って信じてきた規則正しい食事って、何なんでしょうか?自然界の動物を観察してみて、規則正しく食事をとっているのは、人間だけではないでしょうか?お腹がすいてなくても、わたしたちは、3度3度食事をきちんとります。でもそれでは、消化も中途半端で、ほとんどの方が、排毒が身体の中で行なわれず、免疫力が低下してしまいます。

現代人の多くが、糖尿病やガンなどの疾患で苦しんでいます。やっぱり師匠がおっしゃる通り、わたしたち人間は、食生活や生活習慣ひとつとっても、何か大きな過ちをおかしているのではないでしょうか?わたしたち人間は、みんな一人一人が違った存在です。それを無視すると、大変な間違いを起こしかねないのです。医療も教育も政治もみな同じです。だから、師匠は、いわれたと思うのです。「人間は、規則正しいというのが一番よくない」って、そういわれた言葉が、わたしには、何か意味のあるとても大切な言葉なのではないのかなって思いました。
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029.gif 体験と人との出会いが、あなたの人生を変える

多分、前にもこのようなテーマで、このブログにも書かせてもらっていますが、あらためて、人生の節目でこの言葉をかみしめています。もちろん、経験や体験が、人生において大切なものだということは、大人になれば誰でもわかることですが、やっぱり噛み締めて、味わいたいのは、「人との出会い」です。

この言葉をわたしに教えてくれたのは、わたしの母でした。母は、私が35歳の時に、69歳の若さで交通事故でなくなってしまいました。しかし、この言葉は、母の思い出と一緒に、私のこころに一生、生き続けています。わたしが、人生の出会いの中で、最初に果たしたのが、母との運命の出会いでした。

わたしは、母から、「やさしさ・努力・愛情」が、人生でいかに大切であるかを、母の生き方を通して教えてもらいました。この3つの言葉が、わたしの人生を形成する上で最も大切なキーワードになりました。

誰もそうだと思いますが、両親、家族、友人、恋人などは、もうそれだけで、大切なかけがいのない人との出会いが始まっていることは、間違いありません。その中には、もしこの人との出会いがなかったら、今のわたしの人生は、決してあり得なかったことだろう。そう思うことは、いっぱいあります。

目を閉じてください。あなたには、そういう運命の出会いの人が、何人いるでしょうか?男、女、年齢の隔たり、数の多さ、それらは、運命との出会いとは、まったく関係はありません。いかに、あなたという人間の運命を変えてくれたか?そこが、重要なポイントだと思います。

しかし一方で、運命の出会いとは、お互いに育むものであることを忘れてはいけません。とても理解と寛容さが大切なのだと思います。せっかく、目の前に、もしかしたら運命の出会いが、存在しているのかもしれませんが、互いにそれに気づかない場合がよくあります。大切なものと、そうではないものが、混在してしまって、それに気づかないで、すれ違ってしまう場合が、現実にはたくさんおこりえるものなのです。

わたしも人生の半ばですが、まだまだこれから先に、運命的な人との出会いが、待っているかもしれません。もしそういう出会いをさせていただけるのなら、わたしは、今まで以上に大切にしようと思います。わたし自身の、こころと魂と直観を信じて、素直な気持ちで、人との出会いに向き合おうと思います。
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029.gif これから八倉治療院の治療スタイルが「やさしく」に変わります

開業してから9年目になりますが、これまでも治療方法は、ずいぶん変わってきました。最初は、鍼は使いませんでした。指圧マッサージ一本でグイグイと行く感じでした。それから、鍼を本格的に使い出したのは3年ほど前からです。

鍼はひびかせるものという考えから、治療効果を最大限に広げることを考えてきました。わたしの鍼のイメージは、チビなのに大きな強敵をなぎ倒していく「一寸法師のハリ」でした。

治療者としてのわたしの性格は、たぶん「やさしい」方の感じなのではないかと思います。でもいったん治療に入ったら、どんな病気でもつらくて重い症状も許しておかないスペシャリストに変身します。

ですから、いいか悪いかわかりませんが、患者さんは、つらい症状も吹き飛んでしまうくらい本当によく治ります。治療回数も極めて少なく終了します。これまでこのスタイルでやってこれたということは、たぶん、大多数の患者さまからは、後には、満足いただけたのではないかと思います。

でも中には、刺激に対する強さが人それぞれ違いますから、「楽にしてもらいたいけど、あまり痛いのはいやだ」と、いわれる患者さまもいたのではないかと思うのです。残念ながら、患者さまのそういうご希望には、なかなか答えることができませんでした。

症状が強い患者さんに対しては、治療効果をあげることと痛くない治療をめざすことは、なかなかイコールにならないのです。強いていえば、わたくしの治療のウイークポイントではないかなって自覚していたのも事実です。

ところが、今回師匠にご指導いただいたことで、そのわたしの治療が大きく変わりました。鍼治療においても、これまでは「ひびかせたい」という観点から、4センチという限界はありますが深刺しが、今はその必要性がなくなっています。軽くそんなに深く刺さなくても、充分な治療効果があげられます。

これまでも「鍼治療が効く効かないは、うつところではなくてうつ人で決まる」というのが今までのわたしの持論でしたが、その考えは、更に深まりました。治療者のパワーが増大すればするほど、その治療もやさしくなっていきます。多分これからは、たぶん「よく楽になりたいけどあまり痛いのはいやだ」という患者さんの声にも答えられるのではないかと思います。
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029.gif 「世の中には当たり前なんていうことは何ひとつもありません」

久しぶりに会う師匠に、こんなことを言われました。そのひとことで、はっとしてしまいました。そうですね。わたしも、オシッコがでれば、でたで当たり前。ウンチがでればでたで当たり前。そんなふうに考えていました。そういう人間ですから、最近、薬による身体の変調で、大変なつらいめにあってしまったのです。

すごい便秘になってしまって、トイレに1時間以上入っていても、何もでません。途中まででかかるのですが、焦れば焦るほど、かえって事態は最悪な方向にむかいます。直腸から肛門付近でつまってしまって、額から脂汗がでるほど苦しい思いをしました。

いっそのこと、救急車でもよんでもらおうかと思うくらい、痛みと苦痛が重なります。やっとの思いで妻を呼んで、薬局に浣腸を買いにいってもらいました。苦しむこと1時間半。激闘の末。死ぬ思いで、なんとか無事に排便をすませることができました。あのとき、もしわたしが独り住まいの老人だったら、果たして無事だったかどうかわかりませんでした。

そういう経験の直後でしたから、師匠が、「オシッコがでたら、ださせていただいてありがとうございました。ウンチがでたら、ありがとうございました。って手を合わせて、感謝して当たり前なんですね」っていう言葉が、人ごとには思えませんでした。

それにしても、わたしを含めて、人間てなんて勝手ないんでしょうね?物事が思ったように進んでいかないとイライラしたりします。自分はよかれと思い。親切でやったことが裏目にでて、迷惑がられたりすると、すぐにカッとなって激怒したりします。実はそういうことの一つ一つが、わたしたちのストレスの原因なのです。

もし、師匠のいわれるように「世の中のことがすべて当たり前なんていうことは何ひとつないんだとわかっていたら」イライラすることもないし、すぐカッとなることもないし、クヨクヨ悩んだりすることもなくなるのです。

そういえば、わたしが師匠から教えていただいた最初の「宇宙の法則」は、こういう教えでした。「求めるものは得られず」人は自分の都合のいいようにしか考えようとはしません。はじめから自分が望んでいる結果を求めてはいけないのです。

世の中には当たり前なんていうことは何ひとつないのですから、すべては無なのです。もし、運よく願いが叶えられたなら、それは神様に対して「有り難いことだ」と思って感謝するしかないのです。
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029.gif 「朝食をぬく」1日2食健康法

最近感じることですが、わたしの周りには、患者さんを含めて、こんな感じの生活を好む人が人が多いように思います。美味しい物を腹いっぱい食べて、仕事はこれでもかというくらい存分働き、余暇には、身体を鍛えて、満足感を味わおうとする。身体を痛めてきているのに、「先生、何かいい運動はありませんか?」と、わたしに聞く。本当に、日本人は、足し算が好きな人が多い。本当は、身体にいいのは、足し算ではなくて、たまに引き算が、すごくこころや身体の健康に有効なのだが。それを知っている人は極めて少ない。

大切なのは、バランスである。人の身体の器は決まっているので、足し算ばかりしていると、すぐにいっぱいになってへばってしまう。治療の世界でも、まったく同じなのだ。どういうわけか、その辺のところが、勘違いしているのか、わかっていない人が、とても多い。

「朝食を抜く」「休養を取る」これは、間違いなく引き算である。でもこの引き算が、公式に加わると、面白い答えが返ってくるのだ。わたしは、師匠に教えていただいた、この「朝食を抜く」1日2食健康法を行なうようになってから、すごく元気が出てきた。普段のわたしはみなさんと同じ。慢性疲労群にとっぷり使っていて、何もやる気が起きない。「何にも仙人(センニン)」になってしまうわたし。

ところが、ここ数日間は、実に行動的になってきて、頭に浮かんできたことは、すぐに実行。身体は、思った瞬間動き出している。考えすぎの傾向の思考派が、ズバリ実行派に変わっている。逆に言えばそうなった時には、わたしはすこぶる元気がよくなった証拠なのである。でも何が、今までと変わったかといえば、「朝食を抜く」という引き算しかない。これがうまく作用して、元気でダイエットに成功。こころなしか、頭の回転までよくなってきたような気がする。

でも師匠はこうもいわれた。「人間は、規則正しいというのが一番いけないんです」何時も、師匠のいわれる言葉にピックリするわたしも、またもや疑問が生じ、その言葉をじっくり考えてみた。たしかに師匠は、食事は、1日3回、きちんと規則正しく決められた時間に食べる人ではない。「食事は、お腹がすくから食べるんですよね」確かにその通りだ。

師匠は、「人間が決めたこと、考えていることは間違いだらけですよ。もし迷ったら、自然界を見て見なさい。そこに答えがありますから。いくら本なんて読んでもダメです。自然が教科書なんです」そういえば、食事に限ってみても、3度3度、規則正しく食べている動物は、自然界にはどこにも見当たらない。やっているのは人間だけだ。いくら規則正しくというけど。お腹の調子、身体の具合。そういうことを無視してしまったら、やはり身体は壊れるのだろう。

この朝食を抜く1日2食健康法も同じである。いくら健康にいいと思われても、ずっと規則正しく続けられたとしたら、1日3食と同じことになる。やはり、その人のお腹の調子、身体の状態そういうことを、考慮しながら、調整しながらやっていかないと、同じ結果を招くことになる。大切なのはバランスである。師匠は、そういわれているのだなって、わたしも少し、頭が働くようになってきた。
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