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「脳が治すのを諦めたとき、脳は同時に治すのをやめる」

久しぶりのブログです。最近は、ずっと更新ができませんでした。でいきなりこんなに難しいタイトルですが、とても気になるタイトルに挑戦してみようと思います。

わたしも鍼灸師としてこれまでも、多くの方の治療をやらせていただいてきました。その治療体験は実に貴重なものだったと思っています。わたしの臨床経験からいって、明らかに、「やりにくい患者さん」というのは、これまででいうと、ふた通りのパターンがあります。一つは、もうすでに手術をされている患者さん。もう一つは、これまでにたくさんの薬を処方されていながら、症状の改善が見られなかった患者さんです。

もっとも、そのいずれもうまくいって、病気なり、症状が良くなっていれば、わたしどものような治療院へはやってこられなかったはずですから、こういう患者さんに出会うことは、そんなに滅多にはありませんとは言い切れません。

もちろん、お話を聞いた上で、これは、私が出る幕ではないと判断した場合は、丁重にお断りしているので、ほとんどの場合、幸いにも、これまでは、苦戦を強いられることはあっても、治癒することが、不可能だと感じたことは、ほとんだありません。もちろん、鍼灸治療というものは、「治す」というのは、私が直しているのではなくて、患者さんが、もともと持っておられる、自然治癒力とか免疫力なのであって、わたしのやっていることは、ただ、それを引き出させてもらうお手伝いをしているだけなのです。

ところが、本日のタイトルである言葉は、わたしが最近、師匠にご指導されている時に、ちょっと気になったお言葉だったのです。そういえば、わたし自身も、やりにくいというより、絶対にはじめから、ダメだと思うのが、初めから、ご自身が、諦めていらっしゃる患者さんなのです。

わたし自身、鍼灸の治療は、西洋医学のように、強制や強引さは、一切ありません。いつも治すか直さないかは、患者さんの判断一つにかかっているのです。あくまでもそれをお手伝いさせてもらっているのが、私たち鍼灸師の仕事なのです。

ただ、師匠のいわれる「脳」という言葉には、とても深い意味があるように感じました。私の治療院へ見えられる患者さんの多くは、「ハリ」というのは、とても不思議な、治療のように感じられるようです。さっきまで痛かった部位が、ハリを打つことで、あっという間に、その痛みが消えてしまうのです。それを目の当たりに経験された患者さんなら、きっと驚かれて当然だと思うのです。

体験されたことがない方には、いささか不親切な説明になりますが、鍼は、神経を通して、脳を治療するとても進んだ治療法なのです。これが、紀元前前から行われていた伝統医療だとは信じがたいものなのですが、ある面とても神秘的な治療法でもあるのです。

でもここで大切なのは、脳の働きが、すべて治癒するかどうかのカギを握っているということです。「諦める」というのは、脳が可能性を拒絶することに変わりはないのです。ですから、初めから、わたしたち鍼灸師は、「わたしの病気は治りますか?」と懐疑的におっしゃられる患者さんには、積極的には、説得はしません。「どうしても辛くてて困っています。助けてください」ここまでおっしゃられる患者さんでなければ、あえて、困難な治療に取り組む意欲は湧いてこないのです。

でもあえて、人のこころと身体を知れば知るほど。人間の脳の働きを知れば知るほど、「諦めてはいけない」ということの重要性を理解するようになるのです。

「諦めたくなる」という気持ちも、私にはわからないわけではありません。本当に世の中には、よくわからないほど困難な病気や症状というものは、山ほどあります。何度も治療しようとしてやって努力すればするほど。その困難さに辟易(へきえき)してしまう気持ちもよくわかります。

「お金もかかります。時間もかかります。治るという保証もない治療に、誰が本気になるものですか?」そういう患者さんの本音が、聞こえなくても聞こえてくるような気がします。でもあえて言わせてもらえるなら、私はこう考えます。

「心身一如(しんしんいちにょ)」病気を治すことは、自分自身のこころや生き方そのものを考え直し、「こころが変わること」「カルマを変えること」につながっているのです。多分、人間の生き方で、最も尊い行いの一つだと言えるのではないかと信じています。

「私たちの身体は、実は、わたしたち自身のものではありません。神様からお預かりしている、この世で最も大切なものなのです」そういう師匠のお言葉が、私には聞こえてくるのです。

ですから、いつどのような場合でも「諦めてはいけないのです」
# by yakura89 | 2017-03-07 10:37 | 脳のお話
「風邪をひく時には、しっかりひく」これが一番の対処法です_e0167411_23411672.jpg

「風邪をひく時には、しっかりひく」これが一番の対処法です

正月が過ぎた1月2月は、本格的な風邪のシーズンです。学校は風邪のために学級閉鎖が行なわれたり、職場でも、風邪による早退や、欠勤なども多く見受けられます。電車の中も、街ゆく人々も、まるでマスクマンばかりが増えていき、風邪の季節の到来を日に日に感じられるようになってきました。

もし風邪をひかない人がいたら、それは素晴らしいことです.なぜなら、免疫力が高いことの証明でもあるのです。免疫力と言うのは地味ですが、このような時に発揮します。学校では卒業式の日には、皆勤賞という変な表彰が行なわれます。でもわたしは、皆勤賞と言うのは、今までは、こころの中では、どこかバカにしてきました。風邪をひかないと言うことが、非人間的な感じに受け取られたからです。

でも、わたしは、医療の道に進むようになって、初めてその意義が理解できるようになって、その価値がわかるようになりました。皆勤賞と言うのは、免疫力が備わっているからこそできる偉業なんだと言うことが、理解できるようになったのです。やっぱり、表彰してあげてもおかしくないくらい素晴らしいことなのです。

でもやっぱり、冬になれば、細菌やウイルスが、発生しやすいことは確かで風邪をひいいてもちっともおかしくはないのです。でも、注射や薬で、治したつもりになって、学校にいったり、会社に出勤したりする風潮は、あんまり好ましい対応とは言えないと思っています。

人は風邪をひく時には、熱が出ます。発熱、発汗がおこります。鼻水が出たり、咳が出たり、場合によっては、下痢や嘔吐が怒る場合があります。実は、注射や風邪薬は、これらの症状を抑えるためのものです。でもこれっておかしくありませんか?

人が発熱するのには理由があります。それは、風邪の病原である、最近やウイルスが熱に弱いことがわかっているから、退治するために敢えて発熱が行なわれているのです。発汗が行なわれているのは、最近やウイルスが退治された後に熱を冷ますために発汗が行なわれているのです。

また、発汗や鼻水や下痢や嘔吐には、共通していえることがあります。それは、排毒が、身体の中で行なわれているのです。身体は、代謝を高めるために、身体に余分なもの、決して有益でないものを体外に出そうとする性質があります。それが老廃物です。しかし老廃物は、ただいらないものというものだけではなく、いっしょに毒素も入れて体外に排毒しようとしているのです。

人間の生きていくために必要な働きを、「生理」といいます。だから、風邪をひくことでおこなわれている生理現象は、まさに人が生きていくために必要な生理現象といえます。でもその働きを、注射や薬で抑えたりごまかしたりしていたら、どうなると思いますか?身体を守ろうとして働いている免疫機能が狂ってしまうのです。一旦狂い出すと、もうなかなか元には戻らないのがわたしたちの身体なのです。あなたはどちらの道を選ばれますか?

風邪をひいたら、安静に3日間の休養が必要です。安静にじっと大人しく休養が取れれば体外の風邪は、免疫力によって、克服することができます。それが、実行できれば、風邪が治った後も、一度かかった細菌やウイルスには、二度とやられることがないという二度なしの「抗体」というものが、人の身体には備えられます。もう一度冒されたウイルスには、冒されることがないのです。

さああなたはどちらを選ばれる方ですか?それは、風邪をひかれたあなた自身の問題です。どちらをとるかは、あなたの自由です。でも、その選択は、今後のあなたの生き方に大きな違いをもたらすことは確かです。もしわたしに、いわせてもらえば、わたしなら、はっきり言わせてもらいます。風邪は、インフルエンザも含めて「風邪は、ひく時にはしっかりひけばいい」のです。3日間の安静が、いくら辛くても、あなたの何よりも大切な健康を現在と将来にわたって守り続けてくれるのです。免疫力=自然治癒力を高めることがなによりも大切なことなのです。
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患者さんの身体は、治療者のスキルを見極めている

わたしはこれまでの臨床の経験から、患者さんの身体が、治療に必要ないろんな情報を見せてくれていることはわかっていました。姿勢、歩き方、表情など、観察すればするほど、いろんな、問診ではわからなかった症状が見えてきます。もちろん治療自体が、患者さんの身体との対話のような気がします。患者さんの身体が発する声は、治療には極めて大切なものです。

ところで、わたしは、まだ治療とはどういうものかわからなかった頃。師匠に「こういうことで困っている患者さんがいるのですが、どうしたら治すことができるのでしょうか?」と尋ねたところ。「誰が治すのですか?」とよく聞き返されたものでした。「病気や症状を治すのは、患者さん自身の身体、更にいうなら、患者さんが持っている免疫力なのです。私たち治療者は、患者さんの免疫力を引き出すお手伝いをさせてもらっているだけに過ぎないのですよ」こんなふうにご指導を頂いてきました。

それからよく師匠が、こんなことをいわれたのも印象深く覚えています。「わたしたちが患者さんの身体を治していると思ったら大間違いなんです。患者さんの身体が、わたしたちに治させているのですよ」って仰るのです。この言葉は、治療者であるわたしには、とても大きな疑問を投げかけました。師匠の考えは、通常のわたしたちの考え方と全く正反対なのです。

ところが、長く治療という臨床経験をされた方には、不思議だなあと思うことがよくあります。実はわたしもつい最近、脊柱管狭窄症で、手術された患者さんなのですが、様々な症状を教えていただきました。わたしは、患者さんがいわれる通り痛みを感じられているところを治療していくと、やはり、痛みの箇所にはそれだけの筋肉の拘縮が見られました。もし仰っていただけなかったら、今までのわたしなら見逃していた痛みでした。

わたしには、何年も前に言われた「患者さんの身体が治療者に治させている」という師匠の言葉を思い出しました。やはり、わたしたちの身体は神が創造された小宇宙であり、完璧なものなのです。

それからわたしは、他の患者さんにもそういう痛みがないか治療中に試したところ、他の患者さんにも同じような筋肉の痛みが拘縮をともなってあることがわかりました。長年通っていただいている患者さんが、一様に、腰や臀部のある部分に痛みを訴えはじめたのです。これは、長年治療させていただいてきたわたしには、とても不思議な出来事でした。

これはどういうことかといえば、わたしが、治療者としてスキルがあがったことの証明でもあるのです。ようやく、わたしが、腰痛や神経痛が治療できることが、患者さんの身体が見抜いてくれたのです。そう考えると、何かいままで、疑問を持っていた師匠のお言葉も何か、頷けるような気がしてきたのです。わたしは、微力ながら、これからは、今まで助けてあげられなかった患者さんをもっと助けてあげられると思えるようになりました。
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「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」

この間、借りてきたビデオ映画、確か「メカニック」だったと思いますが、こんな台詞があったんです。「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」ってね。何だか、映画のストーリーとは、ほとんど全く関係はなかったんですが、その言葉の重みに、ジーンときてしまったんです。

あのほとんどの方はご存じないと思うのですが、とても素晴らしい治療をされる治療家には、こういう場合が多いのです。わたしの師匠でさえ、何度か死ぬほどのつらい体験をされたことがあるそうです。師匠が、そう仰るのですから、それは余程つらい体験だったと推測されます。そういうわたしも、死ぬほどのまでの体験とは、いえませんが、何度も病院に入院させてもらったり、窮地に追い込まれ、師匠に助けられた経験があります。

こうしてわたしが、師匠に出会うことができて、今このような道に進ませてもらっているのも、やはり、わたしも「痛みを知る人」の仲間であるといえるでしょう。またそれは、過去のことではなくて、今現在も痛みを知る人なのです。だからこそ、痛みで苦しんでいる人を見ると、「なんとかして楽にさせてああげたい」と言うモチベーションが生まれてくるものなのかもしれません。

また、もし治療家が、全くの健康体で、病歴がなかったとすると、これは、大変な考えものだといえないでしょうか?病気のつらさ、症状からの痛み。そういった体験がなかったとすると、人のつらさや苦しみがわかりません。だから、やっぱり、わたしはこの言葉には、尚更深い意味があるように思えてならないのです。

実は、痛みもつらさも苦しみも。人間がこの世に生まれてくる上で、とても大切なお勉強なのではないかっていう気がしませんか?実は、それを知ることは、すごい勉強なんだって、思われるときがあるのです。身体のどこかが痛む時には、何らかの理由や意味が存在します。それらに気づかされる時、そしてそれを克服した時には確かに人の「成長」が伴ってくるのです。

それから、もうひとつ誰でも人を癒せる力があるわけではありません。人は、徳を積んだり、霊性を高めることで、霊格が上がります。ポケモンでいうCPとか、XPとかいうやつと同じで、治療の世界でも、低いレベルの人が、高いレベルの人を「癒せる力」は、持ちえないのです。すぐにパワー不足になります。

何か、誰もが簡単に聞き流してしまう言葉ですが、わたしの耳には、すごく印象深い言葉として残ってしまいました。「痛みを知る人ほど、人を癒せる力がある」って、やはり本当だって思います。
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梅の木から梅干しはならない

師匠は、いつも、おお真面目な話しをされているのですが、時々、その比喩表現が、面白くて、お電話中でも、吹き出してしまいそうなときがあります。この例えは何を意味しているか、わかりますか?

わたしはすごく単純ですから、最初は、本当に梅の木から、梅干しがなっている光景を想像してしまって、おかしくなってしまい。吹き出してしまうのを必死でこらえていました。でも、これはすごい深い例え話しだったんです。

よく師匠は、「ところで、知識と知恵の違いは何ですか?」と私に尋ねられたことがあります。わたしは、毎回、「うん待てよ、これは、前にも一度師匠から、訪ねられたことがあるぞ、何だったけ?」しばらく自問自答しますが、正直いって、いつもわたしは即答できません。

梅の木は、毎年春になると、梅の花が咲き、その花が終わる頃には、木には、丸い小さな実がなります.これが、梅の実です。でも梅の実がなったとしても、これを、そのまま、食べることはできません。想像しただけでも、口の中は、酸っぱくって唾液でいっぱいになり、思わず、吐き出しそうな光景が目に浮かびます。

ところが、あのおにぎりに必要な梅干しは、もとをただせば、この梅の実なんですよね。もうここまで、解説すれば、わたしのように鈍い方でも、もうおわかりだと思います。そうなんです。これは、「知識と知恵の違いは何ですか?」という答えでもあるわけです。

師匠にいわせれば、「いくら知識があったって、人の生活に役に立てるものでなければ、意味がない。人の生活に役立って、活かされてこそ、初めて知恵となるのだ」と言うことをわかりやすく例えてくださったんだなあって、わかるようになったんです。

世間では、頭のいい人と言うのは、山ほどいます。その人達の知識や情報量というのは、膨大で、どうしてこんなことまで知っているのか、驚かされることがいっぱいあります。でも問題は、それがどのように使われているかと言うのが、すごく重要な問題なのです。

もしその知識が、いい方に使われれば、人々の役に立ち、そのことで、楽になったり、幸福を呼ぶものであれば、それらは知恵です。でも、知識というのは、使いようで、悪い方に使われれば、人々を脅かし、不幸に導いてしまうということは、いくらでもあるのです。そうなってしまったら、もうそれは、知恵とは言わないのではないはないでしょうか?

梅干しについて、改めて再考してみました。おにぎりやお弁当に入った梅干しは、ご飯が腐らないような、防腐剤にもなりますし、あの風味は、日本人の食生活には欠かせない、昔から懐かしいお母さんの味です。それから、毎日、ひとつ食後に食べられる方は、それが、毒消しになっていることを、よく心得られている方なのです。

このように、ただの梅の実が、食品として、また、長寿を全うするお薬にもなること、それが、「知恵」なのです。医療も、それと同じなのです。人を生かすも殺すも、その人の心掛け次第、考え方次第で、活かすことも殺すこともできてしまいます。でも活かしてこそ、その知識は、知恵として生まれ変わるものなのです。

師匠の「梅の木からは梅干しはならない」という比喩表現は、それだけでも、すごく面白いお話なのですが、根底にそういう深い意味が隠されていたのです。でも、わたしは、このお話が、意味するところは、更に深く意味があるのだと思っています。

梅の実が、梅干しに作られるためには、長い年月という時間が必要です。特に、熟成された梅干しは尚更です。何でもそうですが、大切なもの、大事なもの、人々の役に立つものは、一朝一夕には誕生するものではありません。人物も同じなのです。苦労して経験を積み重ねられてこそ、誕生できるものなのです。多分、わたしの師匠は、そこまで意味を込めて、「梅の木からは、梅干しはならない」と仰られたのではないのかと思われるのです。