「いいことと正しいこととは違います」
わたし「先生、わたしの患者さんは、みなさん献身的で、やさしい立派な方たちばかりなのですが、どうしてつらい症状に苦しまなければならないのでしょうか?以前、先生は、病気は気づきのためのメッセージだとおっしゃいました。患者さんが気づかなければならないメッセージがそこにあるのでしょうか?」
師匠 「やっぱりあなたは、まだよくわかってはいないのですね。いいですか、いいことと正しいこととは違うのです。いいことというのは、◯◯◯さんにとっていいことなのです。正しいことというのは、100人が100人、誰が見てもいいこと。それが正しいことなのです。あなたの患者さんたちは、確かにあなたの言う通り、献身的と言えないこともありません。ただそれは誰に対してですか?もし夫なり、息子さんなりに献身的かもしれませんが?本当にそれで、みなさんの夫や息子さんたちは、喜ぶのでしょうか。身体の調子が悪いのを隠していて、あとでそれが悪化したり、それがもとで大きなケガをされたり。それで、夫や息子さんたちは喜ぶのでしょうか?そんなはずはないでしょう。だとしたら、だれのために、何のために、ご自分を犠牲になさろうとしているのですか?」
わたし「確かに、先生の言われる通りだと思います。もしわたしが、患者さんの夫であったり息子さんであったりしたら、それがもとでケガをしたり病気が悪化するようでは、かないません。大切な人が苦しむ姿を見たくありませんから。むしろ、病気や症状を自分に対して隠していたということがあとになってわかったとしたら、逆に怒ってしまうかもしれません」
師匠 「でしたら、あなたのいう患者さんの献身さは、ひとりよがりの献身さで、誰にとってもいいことではありません。それにしても、そういう患者さんを治療している、あなたの気持ちはどうなんですか?」
わたし「もちろん、やりきれない気持ちでいっぱいです。治療者なら誰でもそうだと思いますが、早く患者さんに楽になってほしい。少しでも楽にさせてあげたいと思い、一生懸命やっているのですから、なかなか良くならなかったり、ましてや、悪化を繰り返すようですと。自分がやっていることは何だったのか。むなしさを感じるときがあります」
師匠 「だとしたら、患者さんの判断は、いいこととはいえないのではないですか。少なくとも、自分に対して、『いいことをしているのだ』と、思いたいだけなのではないですか。正しいことというのは、夫や息子さんにとってもいいことであるし、治療するあなたにとってもいい。そして何よりも患者さんご本人にもいいということが、正しいことなのです。いいことというのは、◯◯◯さんにとっていいというだけにすぎません。正しいことというのは誰にとっても、正しいことなのです」
わたし「はい、よくわかりました。そういうことをご本人にわかっていただくために、病気や痛みということで、身体がメッセージを送っているのですね。『あなたは大きな勘違いをしていますよ。早く気づいてください』それが、身体からのメッセージなのですね」
師匠 「そういうことです。原因のない結果などは、この世には何ひとつありません。あなたが今、病気や痛みに苦しんでいるとすれば、必ずそこに原因があるのです。あなたが気づかないでやっていたことには、もしかしたら大きな間違いがあるのかもしれません。病気や不幸も同じなのですが、もしあなたが、病気に苦しんでいたり不幸だと思っているのなら、必ず、原因は、あなた自身の考え方や行いにあるはずです」
わたし「先生、それは厳しすぎはしませんか。わたしは、思い違いは結構あると思いますが、わたしがやってきたことに、そんなに『大きな間違い』があるとは思いません。いや、思いたくないのかもしれませんが………」
「あなたの身体は、あなたのものではない」
師匠 「あなたは、相当理解力がないので、はっきり言うことにします。いいですか、人間は、裸でオギャアと生まれてから、裸で亡くなるまで、何ひとつ、あなたのものはないのです。いくらお金持ちでも、貧乏人でも、お金をあの世まで持っていくことができますか。家にしてもそう。あなたが身につけている衣類もそうでしょう。あなたは、あの世までそれを持っていくことができますか。それらは、すべて、あなたがこの世に生きている時間だけ。制約的にあなたの所有物となっているだけなのです」
わたし「そういわれれば、確かに、この世にわたしが所有するものは、何ひとつないのかもしれません。『無にうまれて、無に帰す』なのか。(残念ながら、師匠のいうことには、反論する余地はなかった)」
師匠 「それだけではないんですよ。あなたが、つかわさせていただいているものの中で、最も価値のあるものですが、それが何かわかりますか?それは、あなた自身だと思っている『身体(からだ)』なのです。身体も、実はあなたのものではないんです」
わたし「え、待ってください。わたしの身体は、わたしではないんですか?」
師匠「そう思いたければ、思えばいいですが、あなたもよく知っているように身体は、永遠の命とはいえません。いつかお返ししなければならない時が来るのです。ところで人間の細胞の数は、いくつくらいあるのか知っていますか」
わたし「確か、60兆ぐらいだと記憶していますが」
師匠 「そうです。約60兆。これほど、精密で複雑多岐に及ぶ仕組みを、誰がつくれるというのでしょうか。これから人類の科学がどんなに進もうと、これ以上、精密で優れた身体をつくり出すことは、絶対に不可能です。だから人間のからだは『大宇宙』に対して『小宇宙』と呼ばれているのです。というより、わたしからいわせれば、人間のからだは、かみそのものなのです。その身体を、わたしたち人間は、期限付きでお預かりさせていただいているだけなのです」
わたし「確かに、わたしたち医療に携わるものは、人間の機能と仕組みを知れば知るほど、そのすごさに感動する。やはり師匠のいう通り、これは人知を超えた何者かが、大宇宙をつくったように、人間の身体を作ったのだろう。それを『神』と呼ぼうが、『サムシング・グレート』。呼び方は何でもいいが、それはすごいことであることは事実だ。多分、生命の誕生を考えると、精子と卵子の結びつきがすごい天文学的な確率であったように、わたしたちが身体という高貴なものを授かる確率は極めて低く。まさに奇跡のようなできごとである。それなのに、わたしたち人間は、そのお預かりしている身体に対して、その大切さを、理解している人はほとんどいない。もし神様が、この事実をどのようにご覧になっていることだろうか。あらためて、ぞっとした」
師匠 「人間は、神の化身である『身体』を、まるで車を乗るくらいのように平気であちこちにぶつけておいて、簡単にだめにしてしまいます。車が壊れたのは、車が悪いからですか。それ以上に、あなたの運転が、乱暴であったり、使い方が荒かったりしたからではないのですか。すべては、運転手であるあなたの責任です。ぼろぼろにしておいて、平気で返すというのが、多くの人間が平気でやっていることなのです。というよりは、天寿(寿命)を全うする前に、『感謝もなく、そんなに乱暴に扱うのなら、貸したものを、返してもらいます』ということになってしまうのです」
わたし「確かにこのたとえ話は、わたし自身師匠から何回もことあるごとに、聞かされていた。しかし、実際に身体の仕組みを勉強し、この仕事に就くまでは、いや、師匠からその話を聞くまでは、『自分の身体は、自分のものではない』という認識には、なかなかなれなかった。だから自分が大きな間違いをおかしているという自覚に立てなかったのだと思う」
師匠 「人は病気するのにも、不幸な問題に直面するのにも、それなりの理由があるのです。人間はうまくいっているときは、何も考えようとはしません。何かうまくいかないことがあってはじめて、ふと我にかえるのです。ですから、病気や不幸なことにであった時には、そのことにも感謝しなければならないのです」
わたし「今回の師匠との対話は、とても難しい内容だったと思う。わたし自身、こう書きながらも時々、認識が曖昧になり、師匠から、また同じことで指導を繰り返し頂戴している。だから偉そうなことはいえないが、本当に、この『あなたの身体は、あなたのものではない』ということが認識できた人間は、あらゆる病気からも不幸な現象からも解放されるに違いない」