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患者さんの身体は、治療者のスキルを見極めている

わたしはこれまでの臨床の経験から、患者さんの身体が、治療に必要ないろんな情報を見せてくれていることはわかっていました。姿勢、歩き方、表情など、観察すればするほど、いろんな、問診ではわからなかった症状が見えてきます。もちろん治療自体が、患者さんの身体との対話のような気がします。患者さんの身体が発する声は、治療には極めて大切なものです。

ところで、わたしは、まだ治療とはどういうものかわからなかった頃。師匠に「こういうことで困っている患者さんがいるのですが、どうしたら治すことができるのでしょうか?」と尋ねたところ。「誰が治すのですか?」とよく聞き返されたものでした。「病気や症状を治すのは、患者さん自身の身体、更にいうなら、患者さんが持っている免疫力なのです。私たち治療者は、患者さんの免疫力を引き出すお手伝いをさせてもらっているだけに過ぎないのですよ」こんなふうにご指導を頂いてきました。

それからよく師匠が、こんなことをいわれたのも印象深く覚えています。「わたしたちが患者さんの身体を治していると思ったら大間違いなんです。患者さんの身体が、わたしたちに治させているのですよ」って仰るのです。この言葉は、治療者であるわたしには、とても大きな疑問を投げかけました。師匠の考えは、通常のわたしたちの考え方と全く正反対なのです。

ところが、長く治療という臨床経験をされた方には、不思議だなあと思うことがよくあります。実はわたしもつい最近、脊柱管狭窄症で、手術された患者さんなのですが、様々な症状を教えていただきました。わたしは、患者さんがいわれる通り痛みを感じられているところを治療していくと、やはり、痛みの箇所にはそれだけの筋肉の拘縮が見られました。もし仰っていただけなかったら、今までのわたしなら見逃していた痛みでした。

わたしには、何年も前に言われた「患者さんの身体が治療者に治させている」という師匠の言葉を思い出しました。やはり、わたしたちの身体は神が創造された小宇宙であり、完璧なものなのです。

それからわたしは、他の患者さんにもそういう痛みがないか治療中に試したところ、他の患者さんにも同じような筋肉の痛みが拘縮をともなってあることがわかりました。長年通っていただいている患者さんが、一様に、腰や臀部のある部分に痛みを訴えはじめたのです。これは、長年治療させていただいてきたわたしには、とても不思議な出来事でした。

これはどういうことかといえば、わたしが、治療者としてスキルがあがったことの証明でもあるのです。ようやく、わたしが、腰痛や神経痛が治療できることが、患者さんの身体が見抜いてくれたのです。そう考えると、何かいままで、疑問を持っていた師匠のお言葉も何か、頷けるような気がしてきたのです。わたしは、微力ながら、これからは、今まで助けてあげられなかった患者さんをもっと助けてあげられると思えるようになりました。
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梅の木から梅干しはならない

師匠は、いつも、おお真面目な話しをされているのですが、時々、その比喩表現が、面白くて、お電話中でも、吹き出してしまいそうなときがあります。この例えは何を意味しているか、わかりますか?

わたしはすごく単純ですから、最初は、本当に梅の木から、梅干しがなっている光景を想像してしまって、おかしくなってしまい。吹き出してしまうのを必死でこらえていました。でも、これはすごい深い例え話しだったんです。

よく師匠は、「ところで、知識と知恵の違いは何ですか?」と私に尋ねられたことがあります。わたしは、毎回、「うん待てよ、これは、前にも一度師匠から、訪ねられたことがあるぞ、何だったけ?」しばらく自問自答しますが、正直いって、いつもわたしは即答できません。

梅の木は、毎年春になると、梅の花が咲き、その花が終わる頃には、木には、丸い小さな実がなります.これが、梅の実です。でも梅の実がなったとしても、これを、そのまま、食べることはできません。想像しただけでも、口の中は、酸っぱくって唾液でいっぱいになり、思わず、吐き出しそうな光景が目に浮かびます。

ところが、あのおにぎりに必要な梅干しは、もとをただせば、この梅の実なんですよね。もうここまで、解説すれば、わたしのように鈍い方でも、もうおわかりだと思います。そうなんです。これは、「知識と知恵の違いは何ですか?」という答えでもあるわけです。

師匠にいわせれば、「いくら知識があったって、人の生活に役に立てるものでなければ、意味がない。人の生活に役立って、活かされてこそ、初めて知恵となるのだ」と言うことをわかりやすく例えてくださったんだなあって、わかるようになったんです。

世間では、頭のいい人と言うのは、山ほどいます。その人達の知識や情報量というのは、膨大で、どうしてこんなことまで知っているのか、驚かされることがいっぱいあります。でも問題は、それがどのように使われているかと言うのが、すごく重要な問題なのです。

もしその知識が、いい方に使われれば、人々の役に立ち、そのことで、楽になったり、幸福を呼ぶものであれば、それらは知恵です。でも、知識というのは、使いようで、悪い方に使われれば、人々を脅かし、不幸に導いてしまうということは、いくらでもあるのです。そうなってしまったら、もうそれは、知恵とは言わないのではないはないでしょうか?

梅干しについて、改めて再考してみました。おにぎりやお弁当に入った梅干しは、ご飯が腐らないような、防腐剤にもなりますし、あの風味は、日本人の食生活には欠かせない、昔から懐かしいお母さんの味です。それから、毎日、ひとつ食後に食べられる方は、それが、毒消しになっていることを、よく心得られている方なのです。

このように、ただの梅の実が、食品として、また、長寿を全うするお薬にもなること、それが、「知恵」なのです。医療も、それと同じなのです。人を生かすも殺すも、その人の心掛け次第、考え方次第で、活かすことも殺すこともできてしまいます。でも活かしてこそ、その知識は、知恵として生まれ変わるものなのです。

師匠の「梅の木からは梅干しはならない」という比喩表現は、それだけでも、すごく面白いお話なのですが、根底にそういう深い意味が隠されていたのです。でも、わたしは、このお話が、意味するところは、更に深く意味があるのだと思っています。

梅の実が、梅干しに作られるためには、長い年月という時間が必要です。特に、熟成された梅干しは尚更です。何でもそうですが、大切なもの、大事なもの、人々の役に立つものは、一朝一夕には誕生するものではありません。人物も同じなのです。苦労して経験を積み重ねられてこそ、誕生できるものなのです。多分、わたしの師匠は、そこまで意味を込めて、「梅の木からは、梅干しはならない」と仰られたのではないのかと思われるのです。
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わたしは身体を大切に考えている患者さんを尊敬します(2)

「人の命は、何よりも重い」

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「お金は、人の命よりも重い」なんて、口に出していう人はいません。でもこころのどこかでは、事実として肯定しているんじゃあないでしょうか?「世の中で一番大切なものはお金だよなあ」ってね。

子供の頃、母から「人の命は、何よりも重い」って教えられてきたわたしでも、大人になった時には、人間の社会は、世界中どこでも、現実的には「お金は、人の命よりも重い」ものなんだなあって思うようになっていました。何よりも、自分自身が、お金で、ものの価値を評価するように変化していたのがショックでした。

もしわたしが、ある人物に出会わなかったら、わたしも「新地球の法則」に従って、お金の価値観で動かされる人間の一人になっていたことでしょう。60年間、生きていろんな人と出会い、わたしなりにいろんな人を見てきました。でも、この方と出会うまでは、世の中に、お金に支配されないで生きて行動している人がいるなんていうことは知りませんでした。それがわたしの師匠だったのです。

「お金?汚れるから」って言って、治療中の時には、一切お金には触れようともしません。お金以外の目的で、仕事を全うしている人間を、わたしははじめて目の当たりにさせてもらったのです。師匠の日常をみさせてもらっても、長くお付き合いさせてもらっていますが、師匠には、全く欲という欲がありません。

「人はね、魂ひとつでこの世に生まれて、魂ひとつでまたあの世に帰って行くんです。ですからいくら、お金や財産があったって、それを持ってあの世に行けるわけではないから、意味がないのです」

「もしお金が大切だからといって、金貨をお墓に持って行っても、古代エジプトでそうだったように墓泥棒に荒らされて持って行かれるだけで、永遠に自分の財産になるものなってありません。じゃあ、自分の子孫に財産を残そうとしても、争いごとが起きるだけで、かえってこれなら何も残さないことが最良の道であることも、亡くなった後にわかることで、これも後悔のひとつとなるのです」

「じゃあ、自分の身体は、あなたのものかといえば、そんなことはありません。それは、生きている間、あなたが神様からお預かりしているものに過ぎないのです。それをあなた方は、勝手に自分のものだって思い込んでしまって、ボロボロになるまで壊して平気な人がいますが、それは、神様の目からしたらどのように見えるかわかりますか?」


このようなことを、師匠の口から聞かされたことがあります。わたしもこのようなことを聞かされた時、本当にショックでした。まるで、今までの自分の価値観が、音を立てて崩れ去っていくのが、耳に聞こえてくるようでした。師匠の言葉は、いつもそうですが、重くて、否定しようがありません。言い返そうと思っても、言葉が湧いてきません。

特に今わたしも師匠と同じように治療をさせてもらうという立場に立たされています。「身体」という概念が、全く患者さんや一般の人と考えが変わってしまいました。「壊す」方ではなくて「治させてもらう」方の立場からすると、いかに、患者さんの考え方が、ご自分を大切にしていないかがよくわかります。自分自身を含めて、本当にみなさん「感謝」が足りないのです。

感謝は、わたしたち治療をするものに対してではなく、大宇宙や小宇宙(人体)を作られた創造主である神様です。でも、そういうわたしもあまり患者さまに対してエラそうなことがいえないのです。第一、自分のこころや身体をボロボロに壊してしまったことがあるから、その尊さがわかるからです。

わたしは師匠からいわれたのです。「どのような道も、早い遅いはありません。気づいたときが、その人のチャンスなのです。ケガも病気も不幸現象も、すべては、あなたに気づいて欲しいから起きている神様からのメッセージだからです」

だから、こんなわたしでも神様のお手伝いが出来るなら、自分の人生のすべてをかけてもいいって思いました。でもごく稀に、患者さんの中でも、自分自身の身体を大切にしたい。またそれは、口だけではなく、それを実行されている患者さんがいます。わたしはそういう患者さんを見ると、心の底から、尊敬するようになったのです。

わたしの目からは、治療をする方も、受ける方もそういうことは一切関係ありません。みんな神様の分身ですから、ケガや病気や不幸を通して、どちらが先に気づかさせてもらうかが問題なのです。わたしは師匠と出会ってそのように考えが変わったのです。

(おわり)
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emoticon-0128-hi.gif 身体は、神様からお預かりしている、最も大切なもの

わたしは、治療するときに、患者さんに対して、こんな言葉を発しているらしいのです。「治療させてもらう前に、体全体を診させてもらいますね」「今から、治療させていただきますね」「まず、左の首から診させてもらいます」

その言葉を受けて、ある患者さんから、こんなことを言われました。「先生は、いつも、「治療します」じゃなくて、「治療させてもらいます」って言いますね。また、他の患者さんからも、こう言われました。「先生は、何々させてもらいますって、すごい丁寧な、敬語を使いますね。何か、感謝の気持ちが、現れているみたいで、すごく気持ちがいいです」

こんな会話が、患者さんとの間に、たて続けに続いたので、わたしもちょっと意識してしまいました。患者さんて、いろんなことを、よく見たり聞いていたりするもんなんだなあって思いました。確かにわたしは、いつの頃からか、治療に敬語を使うようになっていました。

それは誰に対してとか、何に対してなのかと言いますと、皆さんには、お分かりになりますか?実は、わたしは、患者さんに対して、敬語を使っているみたいなんですが、実は、厳密に言いますと、「患者さんの身体」に対して、敬語を使わせてもらっているのです。

わたしは、専門学校で解剖学や生理学を勉強をしているときから、人間の身体の仕組みや働きに、すごくよくできているので、いつも感心していました。やっぱり、こんな仕組みや働きを考え、作られた人がいるとしたら、それは、神様以外に考えられないなって思いました。

よく太陽や月や地球などの惑星などを含めて、宇宙のことを「大宇宙」っていいます。それに対して、身体のことを「小宇宙」っていわれることを、皆さんはご存知ですか?そういえば、人間の身体も60兆の細胞からできており、その細胞が、絶えず、生まれてはなくなり、また、生まれてはなくなっていく。というように絶え間のない変化を繰り返しているのも、なんとなく、大宇宙と似てはいませんか?

でもわたしが、本格的に人間の身体に対して、感謝し、尊敬するようになったのは、師匠と出会ってからのことなんです。師匠は、出会ってからそうそう、わたしにいろんなことを教えてくれました。まず第一に、人間の身体は、神そのものなんですよ。神は、自分に似せて人間を作ったのです。長い時間と、失敗を重ねて、人間の身体を作ってくださったんです。そのことを決して忘れてはいけません。

人間は、所有欲が強くって、お金でも土地でも財産でも、なんでも自分のものにしようとしますが、自分のものといえるものは、何一つないんですよ。それが証拠に、人間は、誰も必ず、亡くなるときがきます。その時に、お金も土地も財産も、あの世に持っていけるものがありますか?何もないでしょう?人間は、何一つ、自分のものといえるものは無いんです。人間は、みんな裸で生まれて、裸で亡くなっていくんです。


わたしも、初めは師匠のこの言葉には、ショックを受けました。でも考えてみれば、その通りなんです。でもショックはこれだけではありませんでした。「あなたは、身体だけは、自分のものだって、思ってはいませんか?」実は、その身体だって、あの世に持っていけるわけでは、ありません。みんな最期には、お返しして、行かなければならないのですよ。

わたしは、師匠と出会う前は、そのように考えたことは、一度もありませんでした。特に、身体だけは、唯一、自分のものだって思っていましたし、もしかしたら、身体自体が、わたし自身だって思っていたかもしれません。でも、師匠のおっしゃることが事実だとすると、わたしという人間は、一体、どこから来て、どういう存在なんだろうって考えませんか?

ただ今は、その疑問は、別な時に考えるとして、「身体は、一体、誰のものなのか?」という疑問に戻させてもらいますね。あなたは、やっぱり、昔のわたしのように、自分の体くらいは、わたしのものだって思いますか?そうだとすると、どんなふうに使わせてもらっても、いくら傷つけてしまっても、壊してしまっても、まったく誰にも責められることはありません。これが自己責任というものです。

でも、わたしは、やっぱりそれでは、いけないなあって思うんです。というのは、「身体は、自分のものだって思う人」と、「身体は、神様からお預かりしているものだって思う人」では、まったく生き方が違ってきてしまうんです。じゃあ何が違ってくるかと言いますと、最初に戻りますが「感謝」の気持ちが、まったく違ってくるのです。

神様からお預かりしている、最も大切なものっていうふうに考える人は、自分自身の身体をすごく大切にするんです。普段から、こういう人は、感謝の心でいっぱいなんです。だいぶ前になりますが、こころと身体は一体だっていうお話をさせてもらったことがあります、「心身一如(しんしんいちにょ)」という言葉通り、こころと身体は、すごく深い関係があるんです。だから、身体を大切にする人は、こころも大切にする人なんです。自分にも他人にも優しい人なんです。

わたしは、よく親しいお友達には、治療のことを「神様のお手伝い」っていうことがあるんです。そのくらいですから、いつも神様のことが、頭のどこかにあって、こんな時は、神様ならどういうふうに考えたり、思ったりされるんだろう?っていう考え方をするんです。だから、少しは、わかる時があって、神様は、どんな人間を愛されているかっていいますと、「感謝」のある人なんです。理由を教えましょうか?

病気やどんなつらい症状で治療院へみえた患者さんでも、いつも「ありがとう。ありがとう。これも先生のおかげです」って言ってくださって、感謝のある患者さんは、いつの間にか、すぐに良くなってしまうんですよ。きっと、神様も「感謝のある人」が大好きなんですね。

だから、ここだけのお話にしますが、みなさんもお金や、物や財産や、仕事や名声なんかを、優先して考えてはいけませんよ。まず第一に身体を大切に、「感謝」の心を持って、お過ごしくださいね。そうすれば、きっとあなたも、神様から、信頼されたり、愛される人間になれるのではないでしょうか?いつの間にか治療のお話から、話題が大きくなってしまいましたね。差し出がましいようでしたら、どうぞお許しください。
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emoticon-0128-hi.gif「正しいことは言わないで下さい」

この前、師匠は、わたしとの会話の中で、こんなことを仰ったんです。「正しいことは言わないで下さい」もし、以前のわたしだったら、意外な感じを受けたとは思いますが、その時は、そうは思いませんでした。

師匠が次に仰ったことは、「争いがおこるからです」確かそうですよね。「正しいこと」というのは実に難しいです。それは、人によって「正しいこと」が、みんな違うからです。だから、「正しいこと」を根拠に、自分自身の考えを主張すれば、やっぱり、争いって起ると思います。これまでもそういう経験はいっぱいしてきました。それは個人であっても国家間の問題でも同じです。戦争ってそういうことから起るんでしょうね。歴史的に繰り返されてきた「宗教戦争」なども、実にこの最たる例ではないでしょうか。

でもわたしの師匠は、こういう例では例えることはしません。なぜならこういう例では観念的に理解することはできますが、それはあくまで頭レベルでの理解になってしまうからです。師匠はこのようないい方をされます。ある20代の若い人が、80代のおばあさんに向かって「おばあちゃん!」っていったとします。「おばあさんは、ちょっと不機嫌な顔をされて、何も返事をされなかったそうです」若い方は、「どうして?おばあちゃんは、おばあちゃんでしょう。おばあちゃんに対して、『おばあちゃん』って言ってはいけないの。わたしは間違っていないでしょう?」といわれたそうです。

そうです間違ってはいません。でも、この「おばあさん」の身になって考えると、「つらいんです。悲しいんです」わたしも今年つい最近「シニア」になりましてね。感じることがあるんですね。わたしは、ずっと若いときから、変わっていないなって思うんです。まだまだ若いつもりでいるんです。気持ちは20代くらいにね。でもやっぱり鏡を見ると、顔のしわやシミ、髪の毛の白髪が、やっぱり、老いたことを教えてくれるんです。だから、この若い人から「おばあちゃん」って言われた人の気持ちが、痛いくらいよくわかるようになりました。

わたしは、正確には、この20代の若い人の気持ちもわかります.でも、この80代のおばあさんの気持ちも両方がよくわかるんです。でも残念ながら、この20代の若い人には、80代のおばあさんの気持ちは、経験がないからわからないのです。わかるのは、これから30年か40年後なのです。

師匠はこの会話の最後にこのように言われました。「相手が幸せになるようなことを言ってあげて下さい」って仰るんです。「このおばあさんには、『おねいさん』って言ってあげたらいいんじゃないですか?そうしたらきっといい笑顔と、いい返事が返ってきますよ」って付け加えられるんですね。いつもそうなんですが、この師匠との会話は、わたしにいろんなことを考えさせてくれました。でも、これが一番いい言い方なんだなってわかりました。

まず、言葉は「言霊(ことだま)」だと呼ばれます。とても大切な物です。ところが、自分が「正しいこと=事実」だと思っていることでも、それは、「真実」や「真理」ではないんだなって言うことです。それから、よく「相手の身になって」って言うけど、ほとんどの場合、相手のことがよくわかっていないのが、もうひとつの事実です。そういう場合が多いのではないでしょうか。だから、師匠は、わたしのレベルでもよくわかるように、わかりやすい例えを用いて教えて下さったと思うんです。
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emoticon-0128-hi.gif 天国ことば

・愛してます ついている 嬉しい 楽しい
・感謝します 幸せ ありがとう 許します


「天国ことば」って、ご存知ですか?誰が言いはじめたのか、いろんな人がいろんなところで、「見たとか、聞いたことがある」とかおっしゃいます。私ももう亡くなわれてしまいました小林正観さん著書で、「うたしの会」があるというのを知っていました。「うれしい・たのしい・しあわせ」という頭の文字を取って、「うたしの会」なんだそうです。どれをとっても大切な言葉のひとつひとつです。

わたしは、今回師匠のところに勉強に行ってきて、この言葉を学んできました。もしあの世に天国があるとしたら、生前このような言葉を多く発する方こそ、天国に召されるのではないでしょうか?わたしはそう思って、この言葉の力にあやかろうと決心しました。

師匠は、日頃から、わたしによくこのようなことを教えてくださいました。「人間は、『分け御霊(わけみたま)』といって、生前は、魂はひとつだったものが、神様から分けていただいて、この世に生まれてくるのですよ」とおっしゃっています。分けていただく前の状態を「神我(真我)」といいます。わかれた後の一人一人の魂を、「自我」と呼んでいます。

だから、人間ってもしかすると、はじめは、みんな神様の大きな愛でいっぱいに満たされていたんだろうなって思います。でも、それが自我にわかれてしまったとたん、人が信じられなくなってしまったり、一人一人が、自我が強くなってしまい。ついには孤独な存在になってしまったのだということが、わかりました。

病気の人がよく「イライラしたり。すぐカッとなったり。クヨクヨ悩む」のは、もしかしたら、根底に神様のように広くて大きな愛が持てなくなってしまったからなのではないでしょうか?人がよく悩んだり病気の種として、言われるのが「ストレス」です。確かに病気の原因の大半は、ストレスというこころの問題です。

でも、もし、わたしたち人間の一人一人が、神様ように広くて大きな愛を持っていたなら、みんな孤独から解放され、ストレスや悩みが全部なくなってしまうものなのかもしれませんね。首こりも肩こりも腰痛も起こりません。

師匠がわたしに教えてくれました。「人間は、人の過ちや罪を許すことができないんです。でも神様は、その人が真剣に悪いと思い反省すれば、「ごめんなさい。許してください」のひとことで、罪を許されるというのです。そういう広い愛のことを、お釈迦様は「慈悲」といい。キリスト様は、「アガペー」といい。孔子様は「仁」といわれたのです。それは、つまり、その究極は「神様の愛」なのです。

何を隠そう、そういうわたしも、実は、自我がとても強くて、家の問題から、親戚や兄弟が許せませんでした。ですから、師匠から「大きな声で、天国ことばを、みなさんといっしょに読み上げて見なさい」といわれた時に、すごく抵抗があって、「許します」というひとことが、どうしても言えなくて、言葉に詰まってしまいました。

人はみな、自分が好きな人、愛している人には、「愛します」と言えるのに、どうして、嫌いな人、憎しみを持っている人には、「許します」と言えないのでしょうか?そこに神様と人間に大きな隔たりを感じます。もし天国に召される人がいるとすれば、すべての天国ことばをクリアーした方のみが、天国に召されていけるのではないでしょうか。

また、輪廻転生を繰り返し、また、人間として地球学校に生まれ変わってくるのか?最終解脱がなされるのか?やっぱり、その方のこころの問題がそこにあるような気がします。

わたしは、今は何も考えないで、一日に何回もこの「天国ことば」を声を出して唱えています。意味は、あまり深くは考えません。でも、言葉には「言霊(ことだま)」といって、魂があるはずです。ですから、何百回、何千回、何万回と繰り返していくうちに、自然に、言葉の魂が、わたしのこころを生まれ変わらせてくれるものだと気楽に考えて、この「天国ことば」を唱えようと、決心しました。

果たして、わたしの大胆な試みは、この先どのように、発展していくことでしょう。もしかしたら、人を許し、わたし自身が、トラウマを克服し、孤独から解放されるかもしれません。わたしは、師匠と出会い、感化され、師匠と同じように「神様のお手伝い」を自負しています。

できたら、わたしも師匠と同じように天国に召されたいて願っています。でも、それも大切な目標ですが、まず、その前に今このわたしの生きているまわりの世界を、天国に変えてみたいと願う大胆な野心が、わたしのこころの中にはあるのです。師匠は、そうなることを「神人(かみびと)」とおっしゃっていました。
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emoticon-0128-hi.gif 「世の中には当たり前なんていうことは何ひとつもありません」

久しぶりに会う師匠に、こんなことを言われました。そのひとことで、はっとしてしまいました。そうですね。わたしも、オシッコがでれば、でたで当たり前。ウンチがでればでたで当たり前。そんなふうに考えていました。そういう人間ですから、最近、薬による身体の変調で、大変なつらいめにあってしまったのです。

すごい便秘になってしまって、トイレに1時間以上入っていても、何もでません。途中まででかかるのですが、焦れば焦るほど、かえって事態は最悪な方向にむかいます。直腸から肛門付近でつまってしまって、額から脂汗がでるほど苦しい思いをしました。

いっそのこと、救急車でもよんでもらおうかと思うくらい、痛みと苦痛が重なります。やっとの思いで妻を呼んで、薬局に浣腸を買いにいってもらいました。苦しむこと1時間半。激闘の末。死ぬ思いで、なんとか無事に排便をすませることができました。あのとき、もしわたしが独り住まいの老人だったら、果たして無事だったかどうかわかりませんでした。

そういう経験の直後でしたから、師匠が、「オシッコがでたら、ださせていただいてありがとうございました。ウンチがでたら、ありがとうございました。って手を合わせて、感謝して当たり前なんですね」っていう言葉が、人ごとには思えませんでした。

それにしても、わたしを含めて、人間てなんて勝手ないんでしょうね?物事が思ったように進んでいかないとイライラしたりします。自分はよかれと思い。親切でやったことが裏目にでて、迷惑がられたりすると、すぐにカッとなって激怒したりします。実はそういうことの一つ一つが、わたしたちのストレスの原因なのです。

もし、師匠のいわれるように「世の中のことがすべて当たり前なんていうことは何ひとつないんだとわかっていたら」イライラすることもないし、すぐカッとなることもないし、クヨクヨ悩んだりすることもなくなるのです。

そういえば、わたしが師匠から教えていただいた最初の「宇宙の法則」は、こういう教えでした。「求めるものは得られず」人は自分の都合のいいようにしか考えようとはしません。はじめから自分が望んでいる結果を求めてはいけないのです。

世の中には当たり前なんていうことは何ひとつないのですから、すべては無なのです。もし、運よく願いが叶えられたなら、それは神様に対して「有り難いことだ」と思って感謝するしかないのです。
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emoticon-0151-skype.gif 身体はお借りしている一番大切なもの。粗末に扱ったらバチがあたるよ

昔、師匠からこういわれたとことがあります。「この世にあるもので、何ひとつ自分のものといえるものはありません。もしひとつ、あなたのものといえるものがあるとすれば、それはあなたの魂です。それ以外は、あなたがお借りしているか、あなたが一時的に所有しているだけのものです。すべてが無なのです」こういわれた時に、わたしは、はたと考えてしまいました。

確かに、そういわれてみればその通りなのです。もし仮に、わたしが大金持ちだったとします。いくら家や銀行に貯金がいっぱいあったとしても、それをあの世に持っていけるはずがありません。宝石も貴金属も同じです。家、もちろん長い目で見れば、仮の宿りです。やっぱり人間は裸で生まれて、裸でかえっていくのです。

じゃあ、「せめて身体だけは、自分のものっていえるんじゃない?」って考えますが、これも決して自分のものだとはいえません。第一永遠の生命(いのち)はありませんから、亡くなったら、この世にお返ししていかなければならないのです。でもこのお借りしている身体は、他の所有しているものの中で比べようもなく貴重なものです。

もちろん、所有者は、自分ではなくて「神さま」なのです。神様はいろんなものを創造されました。太陽や月や地球など大宇宙から始まって、自然や動物や人間を作られたのです。なんか昔、「天地創造」という映画がありましたが、そういうスケールの大きな話しです。でもその中でも、生物の中でも最高傑作は、人間です。師匠の話しですと、人間を作るのに172億年の歳月がかかっているのだそうです。すごい話しですね。

よく教科書には、「人間は、猿から進化して今の人間になった」と教わってきましたが、それはとんでもない誤りなのだそうです。だから、人間のルーツは、何代もさかのぼろうとしても猿と交差することはないのです。しかも、「人は神の化身」だともいわれています。それから、人体は60兆の細胞からなり、その細胞も、常に生まれ変わり、亡くなるまで変化しているのです。まるで小宇宙なのです。それほどすごいものを、誰が作れますか?っていう話なのです。

だから、所有者の気持ちになって、使わさせてもらわなければならないとわたしは思うんです。それにしても、わたしから見ると身体を大切に、感謝して使わさせていただいている人って、意外と少ないのです。まるで、下手な運転手が、車をあちこちぶっつけて、ボロボロにしてしまう。人の身体も物と同じように扱っている。やはり、神様からお借りしている大切なものという意識が、とても大切なんだと思います。
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emoticon-0128-hi.gif 「幸せとは、雨や風を防いでくれる家に住めること」

今日外出先で何気なくみていた海外ドキュメント番組の中で、ある修行僧が小僧さん達にこういう話しをしていました。「幸せってなんだと思う?」「それはな、雨や風を防いでくれる家に住めることなんだよ」

わたしは、この言葉を聞いた時、いや〜ビックリしました。いやホントに驚きましたよ。「この言葉、初めてではないな、どこかで聞いたことがあるぞ」って思ったんです。ちょっと考えてみましたが、すぐにそれが、誰の言葉だったのかを思い出しました。

それは、もう何年も前の話しですが、わたしが師匠から聞かせていただいたお話の中で、師匠がいった言葉と、全く同じだったんです。わたしは、今夜は、その言葉の印象が、あまりにも強烈で、何度も何度も繰り返し、しばらく頭の中を離れませんでした。

確かにかにそうなんです。普段は「これで当たり前」って思っていますから、忘れてしまっていて、これっぽっちも感じていないことなんですが、昔を思い出しました。若かった頃、山登りをやっていたことがあるのですが、どうかすると、日程の都合で、どうしても一泊は山小屋におじゃましなければならないときがあって、そういう時だと、一番よく分かりますかね。

一日中、山道を歩いてきて、暗くて寒くなった頃に、くたくたに疲れて、山小屋をにたどり着いて、ホッとした時のあの安堵感。着替えをすますと、すぐにインスタントラーメンを作って、食べて身体を温めて、サラミをつまみにウイスキーでまた体を温める。やがて空腹が満たされ、アルコールでほろ酔い加減になった頃。後はこれで、シュラフにくるまって寝るだけだなって思ったころ。感じるんですよ。

すごく、幸福に満たされるんですよね。「これで、今夜は助かったな。ここは、風もなく雨にも濡れない。寒くもないし、空腹感もない。もう大丈夫。これで助かったな」って、すごく安堵感で満たされ、信じられないくらい、薄暗くて、質素な山小屋の中で、ものすごく幸福感に満たされることって、あるんですよね。

そういう時なら、本当に僧侶や師匠の言葉って、よく分かるんですね。でも今夜のわたしは、本当に素直な気持ちで、その言葉が、そのままこころの中に響いてきました。その時、「やっぱり、わたしは、感謝が足りなかったんだな」って、つくづく感じることができました。
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emoticon-0128-hi.gif 「陰徳と陽徳」徳を積むすべての仲間に

「徳を積む」って、何となく古めかしい言葉になってしまいましたが、「品性や人格を磨く」と同じくらい大切なことばだと考えます。特にこういう「治療の世界」では、欠くことができない、大切な大切なことなのです。

私はこの世界に入って感じることですが、(鍼灸師やマッサージ師、医師や看護師もそうですが、)医療に携わるすべての人にいえることです。「世のため人のためになりたい」そういう動機で医療の世界に入る決意をされた方が非常に多いのです。でも国家試験をめでたく合格したら、そういう決意は消えるのかといえば、そういうことはありません。やればやるほど、それが生きがいとなり、生涯にわたり、「世のため人のために」をつらぬかれる方が、たいへん大勢いらっしゃいます。

つい先日の話しですが、師匠にご指導していただいているときですが、こんな話題がありましたので、みなさんにもご紹介しようと思いました。話題は、いつものことですが、「どうして人は病気になるのか?」ということに始まります。常々、師匠からは、「病気は気づきのためのメッセージ」なんだということはよくいわれています。でもこのようなお話は、その時、師匠の口から、初めてお聞きしました。

師匠曰く、「病ににも5つの段階があって、第1から第2ステージまでは、お金を払えばなんとか、手術なり薬なりで治ります。でもどうしても治らない病気もあるのです」これは、多分、わたしが説明しなくてもみなさんも大方は想像できる病気もあるのではないでしょうか?薬や手術などで治る病気ばかりではありません。むしろ治らない病気、治せない病気の方が多いのではないでしょうか?

また、師匠曰く、「病気は、あくまでも結果なのです。原因は必ず、その病気を引き起こした人の考え方、行いの中に必ずあるはずです。例えるなら、現在の時点で借金があるから、病気が起きているのです。じゃあその借金はどうして返すかですが、お金で治らない病気なら、いくらお金を積んでも仕方がありません。徳を積むことで、あなたの誤った考えを正し、行動を通してこれまでの借金を償わせてもらうのです」

「徳は積む」ということは、簡単にいえば、「世のため人のために何かお役に立てることをする」ということです。でも「徳には、陰徳と陽徳がある」というのです。「陰徳」とは、自分はいいことをやっていても、そのことは誰にも気づかれないし、誰にも知られることはないのですから、誰にも評価されることもありません。しかし、人から、誰からも評価されないと言っても、神様だけがご存知になられる「最高の徳」なのです。

それに対して「陽徳」というのがあります。いいことを行なえば、人からは評価され、そのことで成績や多額のお金が入れば、いくら人助けとなるいい行いだとしても、陽徳なのです。徳であったとして、神様からの評価は、あまり高いとはいえません。私は、今まで「陰徳」に関しては、昔から、師匠に教えられ、私のこころのどこかに意識していましたが、ここに来て「陽徳」という言葉を初めて師匠からお聞きし、何かすごい勇気のようなものをいただいたような気がしました。広い意味でいえば、仕事に関しても、陰徳と陽徳ってあるんじゃないのかなって、わたしは感じたのです。

みなさんの中にもいませんか?いくら仕事とはいえ、報われない仕事っていっぱいありませんか?たとえそれが、世の中のため人のためになるお仕事であっても、世間からの評価も満足なものではなく、それに似合う金銭的な報酬もない。ただ、これが自分に与えられた使命と自覚し黙々と働く。ということが、多分、大多数の方が、そういう認識のもとに一生懸命働いていらっしゃるのではないのでしょうか?でもまた、もう一方では、豊かな名声と評価と報酬を得られる人も大勢いらっしゃることも確かなのです。でもこれも広い意味でいえば、陰徳と陽徳といえるのではないでしょうか。

実は、わたくしは恥ずかしながら、自分の仕事に誇りを持ちながら、一方で不満を感じていました。どうして、自分の仕事は、「困っている人を助けることができなるのに、社会的な評価を得ることができないのだろうか?鍼灸マッサージ師って、どれだけの人が、正しく評価してくださるのだろうか?」そういう不満のような疑問を、いつもこころのどこかで感じ続けていました。

でもこれって、いけないことなんだなあって、師匠のお話を聞いていて初めて気づいたんです。やっぱり、わたしは、「自分では、頭の中で、いろんなことが分かっていると思いながら、実は何にも分かっていなかったんだなあ」って、素直に気づかせてもらったんです。

前にわたしは師匠から、「神様を信じる人ではなくて、神様から信じられる人になりなさい」って何度もいわれたことがあります。もしかしたら、「陰徳」という言葉の中には、そういうニュアンスのひびきがあるのではないのか?最高の治療は、その最高の徳を積んだ人にこそふさわしいものであるような気がします。なぜか、そういう言葉さえ、思い起こさせられるような気がしたのです。

この話しの内容は、師匠がわたくしのためにの何十年と続いているご指導の中から、ほんの少しの内容をかいつまんで話題にさせてもらったものです。だから、ほとんどの方には、ここに書かれた内容が疑問や意味不明なことばかりだと思います。ですから、これは、あくまで、わたしの備忘録として残させてもらうものです。でも、もしかして、「徳を積む」という意味で、これは、もし志しを同じくする仲間の指針となれば幸わいと思い、ご紹介させていただきました。「陰徳と陽徳」その概念だけでもご理解していただけたなら、わたくしの拙い備忘録は、充分に役目を果たせていると信じています。
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